ブラウン惑星人の日々 August 2014
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神戸からの来訪者 TELSTAR
夏休みも終わりかけの今日この頃、相変わらずボストンの涼夏を満喫しています。娘は大学の寮に入る準備で忙しそうです。来週の土曜日はそのために荷物運びをしないといけなくなりそうです。チェロも持っていくと言ってますし。先週と来週の2週間、神戸大学から工学の修士課程1年の川口君がサマースクールに来られていて、井本さんのご紹介で私のところに立ち寄ってくれました。私は知らなかったのですが、TELSTAR という宇宙フリーマガジンがあって、そのスタッフもしているそうです。
http://spacemgz-telstar.com/
https://www.facebook.com/...
隕石の話をしたら、空に光る流星の本体は宇宙塵とか隕石のかけらなので、それを失念していたと話していました。はやぶさがイトカワの試料を持って帰ってきて、はやぶさ2が打ち上げられようとしている今でも、隕石と小惑星に関する国民教育は足りないのでしょうね。やっぱり、宇宙予算という国税を使ってやる宇宙ミッションである限り、国民全体の支援があって、それを議員などを通して上に上げていってもらう必要があるので、若い人々で宇宙が好きで、学生が立ち上げたプロジェクトの衛星などが飛ぶというのは非常に希望的なことですね。日本の若者たちにも、欧米に劣らず、はっきりと自分のしたいことが何かを発言し、実行に移していける人たちが増えてきたのかもしれません。
昔の私を知らない人たちには想像がつかないかもしれませんが、小さいころの私は人前でまともに話すこともできない内気な子供でした。家にお客さんが来ても挨拶もできずに隠れてしまうような、人見知りする子でした。ところが、学校の成績は概ね良かったので、小学校で学級委員や児童会長に選ばれて、どうしても人前で話す必要が出てきました。高校生になってから ESS に属して英語劇に出て、少しは訓練されましたが、大学院修士課程のときに母校の中学校に教育実習に行ったときも、全校生徒の前で挨拶するのが苦手でした。
博士号をとって、アカデミアの全ての就職口に落ちた後、渡米することになって、アメリカでは物事をはっきり言わなければ生きていけないと実感し、1991年からの LPSC での発表とともに、1998年からは Toastmasters クラブに入って訓練しました。今では、セミナーや一般講演会で日本語でも英語でも何時間でも話ができるようになりました。しかしやはり、道端で初めての人に声をかけるのは勇気がいります。バスの中で携帯電話で会話したり、禁煙の場所でタバコを吸ったり、公園で犬を放し飼いにしたりと、不法行為を働いて人に迷惑をかける輩がまだまだいるので黙っていられませんが、おそらく周りの人たちが想像する以上に勇気が要ります。そうやってやっと物言いをしたのに逆に悪いことをしたかのように罵られたら、普通の人はもうこりますね。しかし、帰宅して妻や娘たちから力をもらうと、またやはり続けようという気持ちになります。
この夏は、今まで書かずにたまっている論文執筆をしようと思っていたのですが、むしろ共著論文への貢献や、他の人の論文を査読したりするので終わってしまいそうです。私は隕石と小惑星の分光を専門的にやっているので、小天体ミッション関係のが多く来て、特に、NASA の Dawn 探査機による小惑星 Vesta の分光データに基づくイタリアグループの論文の査読はほぼ毎回私に来るようです。査読者になると、普段は読み飛ばしたりする内容もきちんと読まなくてはならないので、かなり勉強になってよいのですが、論文の質が悪くて拒絶せねばならないときは心苦しいです。過去に、隕石や探査の論文で、特にハンガリーや中共からのものは拒絶せざるを得ないことが多かったように記憶しています。日本だって、固体惑星リモセンにおいては昔はそういうレベルにあったと思うので、最近のミッションの成功や研究成果のレベルの高さに驕ってはいけませんが。
欧州にはいろんな国があるわけですが、中でもドイツは戦後、東西に分かれた時にロケット技術者たちを米ソが取り合って宇宙レースが始まったという話からわかるように、世界最高水準の科学技術者たちがいたわけで、古い分野ほどイタリア・フランス・ドイツ・イギリスなどの貢献は大きいですし、戦後貧しくなってしまった東欧の国々でも、ウクライナとかロシアとかでは、その反動で理論的な研究は天才科学者たちの存在で大きく進んだと解釈しています。ブラウン大にも Jim Head 教授が冷戦時代からそれら科学者との交流を始め、惑星科学分野で共同研究の成果を挙げてきていますね。毎年 LPSC の前にある Microsymposium は、ロシアの Vernadsky InstituteのAlexander Basilevsky がブラウン大の Jim Head たちとシンポジウムを行う計画の認可のために、冷戦下のソ連政府に、小さーい(ミクロ)シンポジウムだから許してくれ、という意味で Micro とつけたそうです。
私はいまだにロシアが日本に対して行った犯罪を世界の白日の下に照らし、北方領土を取り返すまで気を許すべきでないと思いますし、私の叔父もシベリアで強制労働の末に飢え死にさせられましたし、いまだに信じられない国です。その被害国の1つであるウクライナには同情します。ウクライナは松尾芭蕉を学校の教科書で学ぶくらい日本文化に通じていて、日本は東南アジア・中東・東欧の国々が協力して、米中露の横暴に対抗していくための指導的役割を果たすべきと考えています。もちろんウクライナ政府にもロシアに侵入される原因があった可能性も理解します。私が投資に利用している Uinvest もウクライナですし、他人事ではありません。
オバマ大統領が弱腰を見せたがゆえに、9.11 ではベンガジがやられ、クリミアがとられ、南シナ海は侵略され、イラクも元帰りしつつあるのではと感じます。その一方で、オバマケアと呼ばれる国民皆保険の弊害で、財政問題と医療の質の劣化が予想されます。経済がよくなったなどといいますが、私の周りを見る限りそう思いません。雇用も賃金も停滞し、ボストンの中心街なのに空いたままの店舗は存在し、私の翻訳のアルバイトも復活せず、食料品・航空運賃・家賃は高騰しています。株が上昇し続けているように見えるのでパニックになっていませんが、そろそろ暴落してもよい時期なのです。この大統領に(2度も)投票した黒人たちやリベラルな若輩者たちは今頃は後悔してくれているとよいのですが。
今こそ、安倍首相をいただいた日本が第3極として世界をリードするときですね。経済においてはもちろん、LPSCにおける日本の科学者の多さや質を見ても、惑星科学においてもそれをしてきたと思いますし、今後は安全保障面ですね。私はアメリカでアメリカ国民の税金からくる安月給で雇われながらも、いつも日本とアジアの平和を願っています。
涼しいロードアイランドから
日本から帰ってきて実感しましたが、今年の New England 地方の夏は異常な涼しさです。朝晩は半袖では寒くさえ感じることがあります。
先日、日本滞在の最後に「永遠の零」の DVD を見たことを書きましたが、それがきっかけで、三浦春馬という俳優を知ることになりました。この俳優は、ちょうど私がアメリカに渡ったころ生まれた 24 歳で、私が普通見ない類の映画やドラマの出演も多いようですが、最近のドラマで「僕のいた時間」というのが目に止まりました。これは、筋萎縮性側索硬化症(ALS)に犯されていってしまう若者の話で、人生において何が大切なのかを考えさせられます。身体不自由になって余命もあまりないような人間が逆に五体満足でありながら健全な人生を生きていない人々を救っていくような、メシア思想的な話だと感じました。
以前にも、「1リットルの涙」とか「父ちゃんのポーが聞こえる」とかの映画やドラマを見ましたが、それらは小脳脊髄変性症の木藤亜矢ちゃんおよびハンチントン舞踏病の松本則子さんの実話を本人が書いた原作に基づいていて、上記の完全なフィクションドラマとは違いますね。ただ、「永遠の零」のように、実際に人々が体験してきた感動的な物語をある一つのストーリーに凝縮させたと考えることもできます。それで、三浦春馬の以前の映画「恋空」を見てみると、同じようなストーリーでした。どちらにおいても、結婚もしないのにやたら肉体関係を持つのは絶対賛同できませんが、子孫を通してその思いが伝わっていくという思想には共感できます。
ちなみに、これら二つの実話は富山県と愛知県での出来事で、私の故郷の岐阜県を北と南から挟むように二人の苦難の人生が私の人生と重なる時代に存在したと思うと、本当に身近なことに感じます。あと、Youtube とかで垣間見る「父ちゃんのポーが聞こえる」のシーンが、昔学校で見たのと違うように思えるのは、別の古い映画があったのか、私の記憶違いか、興味深いところです。
その手の映画の中でも際立つのは、「Lorenzo’s Oil」で、副腎白質ジストロフィー(ALD)に犯された息子の治療法を両親が見つけていくものです。実際はやや手遅れでしたが、そこで開発されたオイルを飲むことで ALD の発症前か初期の多くの子供たちが助かったという話です。あらゆる病気にはいずれ治療法が見つかると希望していますが、特に遺伝子治療で元から絶てたらすごいことですね。確か、「謎の転校生」の最近のリメークドラマでもそういう別世界の医療技術が出てきていましたね。
上画像:工事中の Kennedy Plaza
まあそういう話は置いといて、今の夏休みの時期は、いろんな平常でないことが起こる時で、最初の写真にあるように、以前もご紹介した、Providence の下町の Kennedy Plaza は大改装工事中で、そのおかげで州内を走るバスである RIPTA の停留所は付近の通りに全て分散移転されてしまっています。月末には長女がブラウン大の寮に入るために荷物を持って私とここで乗換えをするので、非常に不便な状態です。その上、そこからブラウン大まで私が普段歩く道は上り坂なのですが、両側の歩道が工事中のところが多く、如何にアメリカのこういう公共事業を計画する人間が歩行者無視で、きっと年度が替わったかプロジェクトの終わりか何かでお金を使わなければならないから集中してやったかのようで、やや気に障ります。工事してよくなればよいのですが、前回の Kennedy Plaza の工事ははっきり言って改悪で、屋内施設だったものを屋外にしてしまったので、受動喫煙の害が増えました。もうそういうのは止めて欲しいのに、私などの意見も聞かずよくわからない改装工事をしていますね。
上画像:ボストン南駅にある TOTO のトイレ
さて、先日は私は栄養士に会わなければならなかったので、その場所から地下鉄でボストン南駅まで移動したので、列車の駅の新しいトイレを使う機会がありました。そうしたら、以前はあまり気に留めなかったのですが、次の写真にあるように、小便器の全ては TOTO の自動式のものでした。青いシャツを着た私が携帯電話で写真を写している姿がうっすら映っているのがわかるかと思います。マサチューセッツ州の通勤列車の車両も Kawasaki 製ですし、日本の企業の力はここでも如実に出ていると思います。何といっても、酸化チタンの薄膜による抗菌処理は、日本の東大工学部の藤嶋昭教授の発見した原理に基づいていますね。私が駒場の教養学部で確か工学関係の選択科目をとっていたときに、藤嶋先生は本郷から教えに来ておられて、その発見のいきさつを話されていました。そのときの話は、本来は水を電気分解したかったけれど、光による H と O の発生率は実用化するには低すぎたが、その発生するH原子の量は、金属触媒についている大腸菌などを殺すには十分だった、といった内容だったと記憶しています。これも、はやぶさと同じく、世界に誇る日本の技術です!
上画像:チャイナタウンの YMCA にある運動器の1つ
土曜日は、また毎週水泳に行く決意をし直して、チャイナタウンの YMCA に行きました。いつものようにプールで二往復位した後、船こぎ運動をして、今回は奥にあるいろんな運動器具を試してみました。やはりチャイナタウンであるだけのことはあり、写真のように、全ての器具に英語の普通の説明以外に漢字の簡体字による表記がありました。この機械は股を広げる筋肉を鍛えるもので、普通使わないので面白かったです。その他にもいろんな機械がおそらく十種類くらいあると思います。いろいろ試して、後は自転車こぎとかをしてから帰りました。
上画像:ボストンコモンで夏の恒例の無料シェークスピア劇場
帰りには、マクドナルドで Reader’s Digest を読みながら、サラダとアイスクリーム(栄養士に言われたことを忘れたかのように:)とコーヒーを取り、CVS で買い物をして、ボストンコモンを歩いて帰りました。すると今日も毎夏恒例の無料シェークスピア劇場の準備が進んでいました。おそらく、暗くなったころに始まるのでしょう。どの劇をするのか知りませんが、私の好きなものならば見に行きたいところです。ボストンの公園は今年から全て禁煙になったので、気楽に行けそうです。
月曜日は、あの悪名高い Victory Over Japan Day(現在は Victory Day)で、ブラウン大学がある Rhode Island 州だけが今でも祝日としています。なので、私は仕事が休みなので、家族とともに映画を見に行こうと思っています。こんな祝日を残しているのはけしからんですが、それを利用しないわけにも行きませんので。今は無知なアメリカ人たちもいつかは、共産主義者達の罠にはまって日本を戦争に追い込んでいった自分達の過去の過ちに気づくときが来るでしょう。それに関しては、Hamilton Fish の FDR という本がお勧めです。
その後の特別公開
やっと米国ボストンに戻り、金曜日に初仕事をして、週末は時差ボケを治そうといっぱい睡眠をとったりしていますが、未だに午前二時に目が覚めたりしている始末です。金曜日は調整だけしてきましたが、東大柏の杉田君がまたブラウンに来ているので、昼食を一緒にしながら歓談してきました。
日本帰国中の最後の三日間は、いつものように極地研で今栄さんと山口君と共に次回の隕石選定と、はやぶさ2のサブチームの会議などでした。現在は、炭素質コンドライトと HED 隕石の最近のものや見落としたものを最終選定している段階で、この率で行くと、後二回ほど帰国すれば測定自体は終了するかもしれません。もちろん、まだ月隕石サーベイの論文を書くことと、炭素質コンドライトおよび HED 隕石のデータの解析・論文書き、そして全部のデータを公開するための Web ページの作成とかが残っていますので、12月と来年春の帰国以降の科研費二年間の期間においても多くやることが残っています。
ただ、科研費の間接経費を使えなくなったことと、航空運賃の高騰化により、毎年二回程度の帰国しか出来ず、2015-16年度は合計四回の帰国とすると、研究成果のまとめと発表に三回くらいしかないことになります。日本の科研費なので、やはり日本の学会で発表したいところですが、RELAB から LPSC の旅費が出ないことも多いので、LPSC での発表に切り替えてそちらの参加費を捻出することになれば、日本への出張はいっそう減るでしょう。まあそれが現状です。学会とかの締め切りがないと科学が進まないと言いますが、旅費がないと学会にも参加できず、アルバイトとかで小遣い稼ぎをすれば時間がとられるので、やっぱりお金がないと科学は進みませんね。
これまで、はやぶさ2の ONC や NIRS3 の仕様や科学面で貢献を続けてきましたが、それらの実物を実際に見る機会がありませんでした。それで今回、NIRS3 チームの岩田さんや安部(正真)さんにお願いして、宇宙研で組みあがって試験中のはやぶさ2本体を見学させてもらいました。ちょっと距離を置いて、また写真撮影は許されなかったですが、少なくともこれで講演会とかで話すときの自分の発言の背景として実物を見て知っているという意識は出来ました。その日は、上記のようにサブチームで水質変成と宇宙風化の発表の役があり、その後で、相模原市立博物館で Hayabusa 2 Return to the Universe を見たいという私の願いを一挙にかなえる一石三鳥の機会でした。
上画像:宇宙研ロビーにある、はやぶさ2募金箱
宇宙研では、はやぶさ2の見学の後、お昼で時間があったときに、ロビーにある、一般公開の名残のような展示物に目が向きました。最初の写真のように、うわさに聞いた「はやぶさ2募金箱」がちゃんとありました。「生命誕生探求の旅」というキャッチフレーズにはちょっと引いてしまいますが、一般の募金が集まるということに大きな希望を感じます。日本国民の総意に基づいた Bottom-Up なミッションになればよいと感じ、それでこそ未来のミッションへとつながると思います。
上画像:はやぶさ2の要約パネル
その反対側の入り口の横あたりには、次の写真にあるように、はやぶさ2の対象天体 1999 JU3 および衝突装置の概要を説明したパネルがありました。左下には、私が大昔に作った、小惑星の大分類型の太陽からの距離に対する分布のグラフがありますね。最新のデータを使って更新されるべきなのですが、この 50 km 以上の小惑星だけを使ったグラフも大体においては間違っていないと思います。衝突装置(SCI)の説明には、宇宙風化が明確に記載されているのは評価できますね。私は、天文観測で一度しか見えていない 0.7 ミクロン吸収帯が、ONC の高解像度観測やSCIによって出た新鮮なイジェクタで見えることを期待しています。
はや2サブチーム会議は、まだ冷房が壊れていた新 A 棟 5 階の科学チーム室で行われたのですが、お昼を買ってきて食べるときに、私の突然の電話に答えて出てきてくれた長谷川(直)さんとお話が出来ました。あかり衛星のデータや分光器導入のことなど希望に満ちた話が出来ました。お互いに優秀な科学者なのに不思議な立場に居るよね、という自己合理化に聞こえるようなことも私は話しました。きっと歴史の背後には我々のような研究者の貢献が多くあるはずで、私は自分の今までのキャリアを振り返ると、戦後の占領下における白洲次郎的な立場にあるのかなあと思うことが多いです。かなりレベルに違いはあるかもしれませんが。
上画像:相模原市立博物館で展示されているイトカワの模型とはやぶさサンプラーホーンの試作品
いつものように説明不足なグラフばかりのプリゼンでサブチーム会議で言いたいことばかり言ってきた後、3時半からの上映だと思って博物館に急いでいったら、3時50分だったので、しばらく展示物を初めて見る機会がありました。写真のように、イトカワの模型にはやぶさのモデルを着地させたものとか、サンプラーホーンの試作品を二つ並べたものとか、はやぶさは大きく場所をとってありました。一つミスプリがあったので、担当の人に指摘しておきましたが。
それでとうとう Hayabusa 2 Return to the Universe の上映です!これは始めから終わりまで涙なくしては見れませんでしたね。ネタばれするので詳細は書きませんが、はやぶさが人類の永遠の宝であるカプセルを投下した後、地球大気の中に昇華していった後も、魂のように存在し、人々の心に永遠に焼きつく熱い思いを残し、それが今回、はやぶさ2としてよみがえり、はやぶさの魂は、はやぶさ2の打ち上げと共によみがえるという印象を受けました。こんな作品を作られた上坂監督、一度お会いしたいですね。もちろん、科学的内容も多く入っていました。
翌7月30日の極地研での最後の仕事日には、隕石試料申請を提出し、次回の帰国日程の確認をし、いつものようにカメラなどの機器を共同研究者でありかつ東大基礎科学科の後輩の海田君に預かってもらいました。そうしたら、立川駅前のホテルまで歩く予定の私を哀れんでか、車で送っていってくれました。外国からはるばる来ている訪問研究者ですから、それくらいは職務として認められるでしょうし:)ありがとうございました。
その日は翌日の飛行機が午前中の便であることと、家族と合流する必要があったので、成田駅付近のホテルに移動しました。その移動に二時間くらいかかるので、アメリカで注文しておいてコンビニで受け取りをした「永遠の零」の DVD を私のノートパソコンに入れて、電車の中でずっと観て行きました。幸いほとんど座っていられて、最後まで見終えましたが、きっと周りの人たちは何で涙を流しているのだろうかと不思議に思ったかもしれませんね。このような感動的な話がいくつもあった戦中・戦後の時代を物語っていくことが、多くの犠牲の基に生かされ、繁栄した日本に生きる我々の責務だと思います。それは個人の思想には関係ありません。
上画像:JAL の機内で出た「AIR クマモン」食
さて、帰りの日本航空の成田-ボストン直行便では、私は肉を食べないので Seafood の特別食でしたが、妻と娘たちは普通食で、写真にあるのは朝食に出た、AIR クマモンという、麺と汁と焼きおにぎりを順番に食べるような代物です。このアイディアには感心しました。いつも父を思いやる次女は、いくらか私に分けてくれました:)この JAL の直行便は、早くてよいのですが、背もたれの角度が浅すぎることと、すぐに安いクラスが売り切れるのが問題なのと、成田でなくて羽田に飛んでくれればよいのにと思います。そんなわけで、科研費貧乏になった私は12月はこの便には乗れず、Air Canada のトロント経由の羽田行きにしました。機内の状況はどのようなものか楽しみにしています。