ブラウン惑星人の日々 April 2013
You are here: TPSJ Home / MEF / Future Exploration / People / Brown People
帰国直前!
上画像:ブラウン大学の私のオフィスがあるビルの近くの風景
皆さん、日本もこちらもすでに春ですね。ボストンは未だに朝など寒いですが、日中は60度F台になりますね。最初の写真は、私のオフィスがあるビルの近くから見た、ブラウン大キャンパスの光景の一つです。まだ花は満開ではなかったかもしれませんが、ロサンジェルスへの出張があるので、その直前に撮りました。春は一番キャンパスが美しい時だと思います。芝生では学生たちが寝転んで、間近にある試験の勉強などをしています。
上画像:ボストンラテン高の校門
また、先週は私の娘たちが行っている高校であるボストンラテン高(Boston Latin School)で恒例のコンサートがありました。その名のとおり、ラテン語を一所懸命教える学校ですが、なんと400年近く前にアメリカで最初にできた高校なのです。写真の校門もラテン語で書いてありますね。ブラウン大学などのシンボルにもラテン語があり、上流階級にとって常識の一部といえるのでしょう。ボストンの中心の学区では最高レベルの高校ですが、公立なのでまったく無料で通えます。生徒がとっても多いマンモス校で、教師による個別ケアを望む親たちは好まないかもしれませんが、そういう人たちはきっとボストンの中心でなく郊外の周辺都市に引っ越しているでしょう。毎年、約5%の最優秀な生徒がハーバード大学に行くようです。ここの制度は6・3・3制ではなく、5・2・5で、ボストンラテン高も5学年あります。
上画像:恒例のボストンラテン高でのコンサートの様子
この学校の大講堂で、各自いろいろ異なる楽器を練習してきた生徒たちが、学年やレベルごとのグループでオーケストラを作ってコンサートに参加します。この前も他のコンサートの写真でお見せしたように、私の長女はチェロで、この写真の右端にいますね。この子のグループは一番上のレベルの弦楽器のオーケストラで、管楽器は入っていませんので、一般のフルのオーケストラとは違います。
上画像:ロサンジェルス付近の山上にそびえるお城のようなグリフィス天文台
さて、私は今、ちょっと前にお話した私の投資会社のコンファレンスに参加しています。コンファレンスは火曜日だけですが、このロサンジェルスには土曜日から来ていて、知り合いの車でいろんなところを訪問しました。写真にあるのは、有名なグリフィス天文台で、山の頂上に2つの望遠鏡ドームと、中心により大きなドームの中に振り子時計や博物館としての展示物があります。まるでお城のように美しい建物です。
上画像:グリフィス天文台の正面の庭から見えるハリウッドの看板を背にして撮った記念写真です
この天文台の正面の庭には、なぜかジェームズ・ディーンの銅像があり、そのあたりの方向のかなたに、あの有名なハリウッドの看板が見えます。記念にその看板を背景に写真を撮ってもらいました。私は、ハリウッドやラスベガスといった、倫理的に凋落した世界を何とかして正したいと考えています。そのためにも資金は必要です。この世でお金や権力を握った人たちが庶民を狂わせている傾向があり、それは何とかしないといけないです。もちろん、人々には基本的に自由意志がありますが、人間の本性に反する選択をした後は、本心の自由はなくなってしまいます。麻薬中毒患者などがその一例ですね。
今夜は11時過ぎの夜行便でボストンに帰り、明日の朝は直接仕事に行かないといけません。その後は日曜日からとうとう日本に帰国です。ハリウッドの写真がいろいろありますが、それはまた今度ということで。
テロリストの存在に悩む
ニュースでも報道されたように、今週は、予想もしなかった事態がボストンおよびその周辺で起こりました。有名なボストンマラソンのゴール地点であるコプリー広場のレストランの屋外席とかに小型の圧力鍋爆弾をリュックサックに入れておいていくなどという簡単なことで、数人を死亡させ、100人以上を負傷させるなどと言うことは予想できていなかったと思います。
4月15日の月曜日は、子供たちは学校が休みの週で、私は普通に仕事に行っていましたが、怪我で外出できない妻以外はどうしているか分かりませんでした。事件のニュースが入ってきて、自宅のあるボストンコモン近くのスタート地点ではなくて、コプリーのゴール地点付近だと言うことで、心配はしていませんでした。しかし、長女によると、そのころ、コプリーにある図書館に行くために地下鉄グリーンラインでコプリーで降りようとしたけれど、駅が閉鎖されていて、次のプルデンシャルで降りて歩いていこうとしたけれど、警官隊が道を閉鎖していたとのこと。もうちょっと早めに図書館に向かっていたら危なかったと思います。
上画像:4月15日にボストンマラソンのゴール付近で爆発が起こった後にボストンコモンに集結した軍隊と思われる人たち
私が夕方7時ころ帰宅すると、自宅の前のボストンコモンでは、写真のように、余っているスクールバス何台かと、軍隊らしき人たちが隊列を組んでいました。その後数日たっても、2つ目の写真にあるように、そこには更に警察・軍・マスコミなどが軍用車を含むいろんな車やテントを張って常駐していました。まだ爆弾が隠されている可能性があるから警戒しているのだろうなあ、と私は思っていました。
上画像:爆破事件の後、容疑者たちが射殺または捕獲されるまでの間のボストンコモンに常駐している警察と軍隊の様子
次週は LA に、そしてその後は日本へ出張があるので、毎日忙しく実験のためにフルに働いていた私で、金曜日は動けない妻のために3時までに帰宅して食品の買い物にいかねばならず、そのために MBTA の始発6時20分の列車に乗ろうと4時半に起床して6時ころにはボストン南駅に着きました。ところが、2つの Amtrak 便が遅延しており、そのうちに、MBTA も含むすべての列車が停止させられていますというアナウンスが流れました。警察も駅員も何も詳しい説明をせず、しまいには駅からも出なさいということで追い出され、私はまた爆弾テロの可能性があるからと思っていました。
WiFi が入るので、1時間くらい待った後でノートパソコンで妻にメールを出すと、ニュースの内容を教えてくれて、MIT で誰かを捕まえようとした警備の人が殺され、爆弾犯人の1人が射殺され、もう1人が逃亡中ということでした。これはもう、今日は仕事にはいけないなあ、と判断して歩いて自宅まで帰りました。途中の町にも人も車も少なく、まるでゴーストタウンに近かったです。どうやら、私が自宅を出たころに戒厳令のようなものが出て、公共交通機関は止められ、人々は自宅に居るように強く勧められていたようです。特に、犯人が逃亡していると思われる Watertown においては、警察以外の人にはドアを開けるなと言われていました。
上画像:私の自宅の近所のボストンコモンの出入り口の1つにある石碑で、「ボストン1630年設立」とある
3つ目の写真にもありますが、こういう事態って、1630年にボストンが設立されてから初めてのことではないでしょうか?ここでは、よくサスペンス映画が撮影されて、Leonardo DiCaprioとかが来たりしてましたが、これはリアルの爆弾テロとその犯人探しがボストン周辺のいくつかの都市をまたいで行われているのですよね。そういうのは本当に映画の世界だけにしてほしいです。。。この日の夜、逃亡中の19歳の犯人は射撃された後捕まえられ、病院で治療を受けているということです。
上画像:毎週行くMarket Basketというスーパーマーケット。これは別の日の写真ですが、この土曜日はテロ騒ぎで外出できなかった人たちが押しかけて大混雑でした。
後のニュースによると、犯人を逃がさないように、列車もバスも止め、Watertown周辺の主要道路も閉鎖し、住民には自宅にいるようにさせ、区画ごとに警察と軍で捜査して行ったようです。爆弾の危険と言うよりも、犯人を逃がさないためにAmtrakやMBTA、そしてバスや飛行機までも止めておいたらしいです。爆弾の破片の回収と、防犯カメラの映像もありましたが、こんなに早くことが展開するとは私は予想していませんでした。お陰で金曜日は仕事にいけず、買い物も土曜日にずらしました。スーパーマーケットに行ったら、外出できなかった人たちが押し寄せて、店内もレジも大混雑でした。写真は、普段の混雑していないときのものです。
今日、日曜日は、とうとうボストンコモンに常駐していた警察と軍が撤退したようです。バスターミナルや駅が警備されてるのは普通としても、町中がそうなって、戒厳令まで出されるのは異常です。ボストンは、2001年の9.11の時も世界貿易センターの双子ビルに激突したアメリカンとユナイテッドの2つの飛行機が飛び立った場所で、テロリストたちもこの近辺に潜んでいたわけです。ここにはキリスト教会のみでなく、イスラム教のモスクも多くあります。この平凡な平常の生活のありがたさを実感するとともに、今回のようなテロがなくなるように、政治家だけでなく、MITやハーバードで教えている学者たち、そして何よりも宗教者たちが本当の人格成長の道を教えていかないといけないと思います。
Analog Researcher Dr. Hiroi
今日は、私が長年愛用している商売道具ともいえる携帯品をご紹介したいと思います。
上画像:私の実験のときの武器であるタイマー・アラーム付の腕時計、多色ボールペン、そしてシャープペンシル
まず、最初の写真にあるのは10数年来使っている私の腕時計と、多色ボールペンとシャープペンシルです。後者は日本の100円ショップで買った安物ではありますが、それでもアメリカでは高品質の貴重品に思えてきます。特にサイドノックのシャープペンはありがたいです。多色ボールペンも、黒だけでなく、論文の査読のときに赤を使ったりするので非常に便利です。しかし何より重要なのは、この TIMEX の腕時計で、薄型ながらも、タイマー・ストップウォッチ・アラームの3つの機能と、日時が2つのタイムゾーンで設定できます。
RELAB で FT-IR(フーリエ変換型赤外)分光測定をするときは、典型的には5分の測定時間で試料を次に移動させるので、もう一方の BDR(双方向反射)分光器や試料調整などの仕事の合間に5分毎に FT-IR 機械に戻ってきて試料ステージを動かして次の測定に切り替える必要があります。そんな時には、この腕時計のタイマー機能を5分に合わせ、そして BDR 機械の試料交換の時間はアラーム機能で特定の時刻に設定して、実験室内を行き来します。これら2つの機械を動かしながら、データ処理をし、更にクリーンルームで試料調整をしているときは4つの事が同時に頭の中で動いていて、集中力がないとミスることになります。特に、アポロ月試料を扱っているときは、試料をこぼしたり、汚染したり、無防備なところに置けないので、非常に緊張します。
上画像:私の大学用週間予定帳とRELAB測定ノート。機密事項もあるので解像度をかなり下げてあります。
そして、次の写真にあるのは、私の週間予定帳(Weekly Planner)と測定ノートです。Weekly Planner は、かなり前から Quo Vadis という会社製の大学用の夏で区切りになるものの Refill(中身だけ)購入して皮のカバーに入れて使っています。ご覧のように、シャープペンでぎっしりと予定を各曜日の対応する時間帯に書き、特定の日付に限らないものは右欄に書き、長期的な項目は Post-It で別に貼り付けたりします。
右の測定ノートは、私がヒューストンから戻ってきて以来20年近くの記録が6冊くらいに書かれていて、2つのランプをいつ ON/OFF したとか、どの試料のどの波長範囲をどのファイル名で測定したとか、角度・測定波長間隔などの条件なども書いてあります。ここでは、左ページが BDR 用で、右ページが FT-IR 用になっています。やはり、インクベースのボールペンなどよりも黒鉛粒子が乗るシャープペンの方が長持ちしますし、細かい字もかけるので、必ずこのように記録します。電子媒体は信用できません。
上画像:移動中も携帯している、電子辞書、月刊誌リーダーズ・ダイジェスト、そしてMuvo(MP3プレーヤー)
最後の写真は、私が特に通勤とかの移動中にいつも携帯しているものです。私は片道2時間くらいという長い通勤時間を過ごすので、Creative Lab 社製のMuvoという MP3 プレーヤーに外国語の学習教材や音楽を入れて聞いていて、月刊誌 Reader's Digest を毎月読み、そこでわからない単語を辞書で調べます。この辞書は Seiko Epson 製で、180 万語の物も含み、翻訳のアルバイトでも活躍します。もちろん、最近はインターネットで調べたほうが早く最新の情報が得られる場合が多いですが。どれも、非常に長い期間愛用しています。英語を上達させるには、常に新しい内容を読み、わからない単語や表現はすぐに調べ、繰り返して学ばないといけません。これらの武器はそういう目的に供します。
大学受験時代、旺文社のラジオ講座で数学を教えられていた、渡辺次男(なべつぐ)先生が、「わからない単語が出てきたら、すぐに辞書を引くようならば、あなたはいつかきっと英語を征服できる。」、そして、「物事をやり遂げるのに必要な事は2つしかない。始める事と続ける事だ。」という趣旨のことをおっしゃっていましたが、私はそれらを座右の銘にしています。なべつぐ先生の教えと参考書類は非常に役に立って、私の東大受験およびその後の勉学に大いに貢献してくれたと思っています。
ヘリオポーズ
今日は60ページ以上もある翻訳のアルバイト($1200の収入)を終えて、ほっとした一日でした。私の副収入は、なかなか旅費も出るとは限らない日本の惑星探査ミッションに海外から参加するためのポケットマネーの出費をまかなうために重要なものでした。真の科学者は自腹を切っても科学に貢献するものです。先々週のLPSCでの出張と今月末のLAそして来月の日本への出張の合間に、今日は昔のことを思い出して、その体験を少し書きたいと思います。
上画像:2009年に会津大学で開かれた、SELENE月周回衛星のLISM (Lunar Imaging SpectroMeters) のグループの合宿研究会での小グループ会議
私は、はやぶさ計画に参加する以前に1996年ころからSELENE(かぐや)衛星の共同研究者として参加していましたが、この探査ミッションも遅れに遅れて、2007年9月14日に打ち上げられ、2009年6月10日に月面に計画衝突させられたものです。
最初の写真は2009年に、LISM(Lunar Imaging SpectroMeters)と呼ばれる、Terrain Camera (TC), Multiband Imager (MI), Spectral Profiler (SP) の3機器の集合体をつかさどるグループが合宿会議をしたときの模様です。私が月物質の可視・近赤外分光の話しをしている時らしく、右側に元指導教官であられる武田弘先生、東大の後輩で今は阪大の佐伯和人君、真ん中に宇宙研のMIのPIである大竹真紀子さんと背を向けたXRSのPIである岡田達明さん、そして左には隠れかけている環境研の中村良介さん、会津大の出村博英君と平田成さんです。ここでも現役では私が一番年長になってしまっていますね。そういう固体惑星物質分光のプロを育てた(?)武田先生は、いったい誇らしげに私のことを思われているのかどうか、興味深いところですが。
上画像:私が1997年ころに作成した、かぐや衛星の Multibank Imager (MI) の波長領域を近赤外まで拡張すれば、いろんな月の鉱物を見分けることができますよという図で、提案書に使われたもの
実は、MI は今振り返れば、可視(415, 750, 900, 950, 1000 nm)と近赤外(1000, 1050, 1250, 1550 nm)で合計8つのバンドを持つ、非常に分光的にも空間的にも高性能のバランスの取れた機械として非常に貴重なデータを生成しましたが、計画当初は2つのチップを両方とも可視に割り当てて、NASA の Clementine ミッションのように8つのバンドを細かく取るというものでした。しかし、それではケイ酸塩の 1 ミクロン吸収帯をすべてカバーできないので、宇宙風化による赤化傾向を除いたり、カンラン石と斜長石の区別もできず、輝石の吸収の中心波長を求めるのも不正確になります。それで、高知大の本田理恵さんおよび宇宙研の飯島さんと相談し、MI の近赤外への拡張という提案書を書きました。その時の図の1つを復元してきました。当時は MI の PI は大嶽久志さんでしたが、それが受け入れられて、大竹真紀子さんに引き継がれたという経緯です。その結果、かぐやは NASA の M3 より先んじて純粋な斜長岩(Purest Anorthosite, PAN)の吸収を初めて月面で発見することができました。また、SP と併用して、カンラン石に富む領域の分布を出したりできました。
SP は S/N 比が 1000 にも成るようなすごい分光器ですが、この仕様は、月の表土の反射スペクトルの浅い吸収帯の深さ方向を精度よく測るために、つまり背景吸収を除いて吸収帯のみにしたときにきちんと解析できるスペクトルになるかという基準で決められました。私が武田先生や Carle Pieters と共に提案していた M3 のような画像分光装置(Imaging Spectrometer, IS)との競争の結果、勝ち組として出てきた仕様だと思います。当時の日本の技術では IS のように空間方向も波長方向も1つの検出器で一度に測定してしまうというのはやはり無理だったのでしょう。悔しかったですが、その判断は最終的に正しく、上記の MI を近赤外に拡張するという、私がSPに負けた後に提案したことが実現した結果、MI と SP で非常によい科学成果を出すことができたと思っています。
上画像:自宅で炊いた、黒豆・小豆・鳩麦入りの玄米ご飯。アメリカでも象印が一番おいしいご飯が炊けると有名です。
今週からの2週間は、以前紹介した Leah Cheek ちゃんが博士号を取るためのデータを測定せねばならない追い込みのときで、そんな時に最近ロシアに落ちてきた隕石が舞い込んだりして、いろいろ忙しくなりそうです。LA や日本への出張でも、やはり忙しい日々が続くと思いますが、そこで重要なのは健康管理で、その基本はやはり食事です。写真にあるのは、我が家の象印炊飯ジャーで炊いた、黒豆・小豆・鳩麦入りの玄米ご飯です。これを毎日夕食で食べ、朝は果物とヨーグルトと牛乳とコーヒー、昼は野菜と卵と全粒パンのサンドイッチとコーヒーで、コーヒーはいつもブラックです。日本にも玄米を持っていきますが、極地研と天文台水沢以外のホテルで泊まる時は玄米を炊けないのが問題です。それでも、何十年もかかる長期戦である惑星探査に携わる限り、長く健康に生きることは絶対必要条件です。皆さんも健康で人生を満喫しましょう。
頑固な娘に夢を見る Dr. Hiroi
とうとう今日で3月も終わり、寒いここニューイングランド地方もさすがに春の兆しが満ちてきました。最高気温は60度Fを超す日も出てきて、雪もほぼありません。
今週は、LPSCから帰ってきた後、博士号取得のために急いでいる2人の大学院生達のために、次のLAや日本への出張までに何個の試料を測り、他の研究者たちの予定とどう調整するかが課題です。更に、妻がまだ家事をあまりできないので、子供たちの食事と買い物をいつするか、病院に連れて行く日なども休む必要があり、これからの1ヶ月ちょっとは挑戦的な日々が続くと思います。
一方、先日またK大の基幹教育院からの公募落選通知が来たので、私自身のこれまでの研究活動と生活設計についてまとめてご紹介してみたいと思いました。
上画像:学部卒業の1983年から現在までの私の83本の論文(Papers)と解説記事(Reviews)の数の統計。主著と共著を Primary および Seconary として区別してある。
最初の図には、私が学部を卒業した1983年から現在までの30年間に出版した83本の論文と解説記事の数を、主著と共著に分けて統計を取ったものです。これを見ると、いろんなことが反省点として見えてきます。まず、博士号を取るまでに自分が主著として出した論文が1つもなかったこと。これは現在の基準ならば博士号取れないですよね。やはり出発点から問題ばかりの私のキャリアだったのです。博士論文は、何と2年後にブラウン大学に来た年にやっと出版され、その後行った NASA ジョンソン宇宙センターでの NRC 研究員時代とブラウン大に戻った直後を含めて、7年間で14個の主著論文を出した最盛期だったかもしれません。
その次の年の1997年は、ブラウン大で技官の肩書きしかなかった立場から、上級研究員(Senior Research Associate)の肩書きも付けて頂いた年ですが、論文は出ていません。その後は、主著論文は平均して年に1本くらいでしたが、翌1998年くらいから共著論文が増え始め、主著論文は年1本くらいになりました。その後、RELAB の利用者と、「はやぶさ」と「かぐや」の若い研究者達との共著論文が格段と増える中、主著論文は最近は2~3年に1度くらいになってしまっています。もちろん、陰の指導教官として自分のネタを学生や若い研究者にあげてしまっている面もありますが、やはり自分の怠慢があると思います。現在も、書くべきなのに放って置いてあるテーマがいくつもあり、今年はそれらを論文にしないといけないです。
上画像:出版された合計181本の学会要旨の数の分布。一部の日本語の学会要旨などは含まれていない。
一方で、次の図にある、LPSC のような学会発表要旨で出版されている物の数を見ると、1999年くらいから平均すれば年9本くらいに安定しているのがわかります。研究をした後で学会発表はするけれども、自分で論文を書くのを先延ばしにしてきて、他の人が先に論文を書いてしまったという場合も多いと思います。HED 隕石のスペクトルを世界中の博物館から集めて測定したものの、自分で論文にまとめられずに、Tom Burbine が小惑星観測とあわせて論文にしたり、最近、Ed Cloutis が炭素質コンドライトの論文をいくつも出しているのもその例ですね。私も共著になっているので良いですが、義理堅くない人ならば、RELAB の Public Domain データなので、私を無視して出してもよいわけです。
大昔は、論文が100本以上あるとか言われる大学教授はすばらしいなあと単純に思っていましたが、論文を共著も含めてそれだけ出すことが問題ではなく、その内容が如何に科学の進歩や教育に貢献しているかどうかで、数だけ稼ぐのは紙くずを増やしているだけです。おっと、今は PDF で流通しますから、ネットの Band 幅を無駄にしているというべきか。でも、そんなことを指導教官に正直に言ってしまう若き日の自分はやっぱり生意気な小僧だったんでしょうね:)
上画像:私が1995年にブラウン大の技官として戻った後から最近までの天引き前の給料と他の収入の記録
あと、私が安月給でどうやってきたかを示すのが、次の図です。1994年に NASA ジョンソン宇宙センターを追い出され、1995年にブラウン大学の技官として正式に就職した後、手取りでは月に $2000 とかで、家族が生活するには及ばない給料でした。その打開策として、特許関係の文書の翻訳を DC Group という会社を通してやり始め、それが膨らみ続けて、時にはブラウン大の給料と同程度になります。しかし、このやり方では時間と労力がかかりすぎて持ちません。その上、3.11 の震災のあと仕事が激減してしまいました。
そこで始めたのが、HedgeHunter というソフトによる外貨自動取引(FOREX.com)で、それと同時に、以前ご紹介した Uinvest です。最後の2013年は3か月分のデータしか入っていませんが、Uinvest は飛躍的に伸びると予想しています。Rich Dad Poor Dad を書いた Robert Kiyosaki のように、「お金にお金を作らせる」という発想で今後は行こうと思います。そうすれば、NASA 研究費が切れてブラウン大学を首になったとしても Freelance で惑星探査にも貢献できます。
上画像:音楽教室のコンサートでチェロを弾く長女の麗馨17歳
最後は、昨日土曜日にRoxbury Community Collegeというところでオーケストラのコンサートにチェロで参加した長女・麗馨(れいか)の写真です。毎週土曜日にレッスンを重ねた成果の披露でした。もう17歳なので、来年は大学に進学になるのか。この子は目元も性格も私にそっくりなので、頑固で無理しがちなのが心配ですが、まあ男の子がいないうちにとって後継者となるならばこの子しかないと思っています。科学者になる気はないといっていますが、大学に行けば進路はいろいろ変わりますし。。。