MEF 二周年に寄せて
~惑星探査ポータルサイトの発展~


いよいよ今年末、世界初の小惑星サンプルリターン・MUSES-C探査機が内之浦から打ち上がります。MUSES-Cに続く次期小天体探査案をボトムアップで創るフォーラムとして発足したMEFの歴史も、今日から3年目に突入します。この一年、MEFは多くの協力者に恵まれ、惑星探査サポーターが集える場所として、また惑星探査に関する一般への情報発信基地としての役割をさらに強化させて参りました。


これまでに登録メンバーは180名を超え、通算1100通以上の通信が交わされ、学術会議での発表も国内外で20篇以上を数えました。また一般公開ページも、大好評の「惑星探査が学べる研究室案内」や「Leonid MAC日本語ページ」に加えて、日本惑星科学会と連携した「遊星人」記事の転載ページや、日本惑星協会のミリオンキャンペーンに協賛している「MUSES-C勝手に応援ページ」など、新しいコンテンツも充実させてきました。その結果、お蔭さまで開設後1年半で25000ヒットを超えました。これも一重に、「もっと身近に宇宙を感じたい」と願ってMEF活動にご参加し、あるいはご支援下さった皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。

「惑星探査のアイディアが、一人の頭の中に浮かんでから宇宙に飛び出すまでの過程を、興味ある日本人全てに情報公開することで、惑星探査のサポーターを増やしていこう。」2年前に会員ページを創設したとき、私たちはそんな願いを立てました。とはいえ、ミッション案を検討する過程では、科学的・工学的議論について全く妥協しなかったので、小中学生やアマチュアのメンバーの中には、全てをフォローしきれなかった方もいらしたかも知れません。それでも一つの惑星探査が創られる全工程に立ち会うことはかけがえのない体験です。そこでは何がどこまで掘り下げられるのか、どこに大の大人が懸命になるほどの魅力があるのか、という疑問をメンバー各人に抱いてもらうだけでも、十分な教育効果があると考えました。

というのも、宇宙理工学に関する国内の報道は、これまで「打ち上げ花火」扱い、つまりロケット打ち上げのみに集中しがちだったからです。例えば昨年、H-IIA試験一号機打ち上げは3分間TV生中継されましたが、一段目を切り離す前に、のど自慢番組の再放送に変わってしまいました。しかし惑星探査機や科学衛星は、言うまでもなく宇宙に出てからが本番です。打ち上げ後の活躍に注目しないのは、例えば高橋尚子選手が優勝したシドニーオリンピック女子マラソンにおいて、スタートの場面のみをTV放映するようなものでしょう。その後2時間余りにわたる路上での競争を放映しなかったら、そのTV局は視聴者から一斉に非難されるでしょう。しかし現代日本では、宇宙科学や惑星探査について、それがまかり通っています。この瞬間にも日本人が作った探査機が月面に眠っていたり、火星に向かっているという「同時代性」について、継続して伝えてくれるメディアは存在しません。

ところが、です。戦後復興期の真っ只中であった1956年、日本中が国立極地研究所の初代南極地域観測隊に惜しみない拍手を送り、極地研には隊員達に宛てた食料や衣類が全国から寄せられたそうです。また、1970年に宇宙研の前進である東大・宇宙航空研が日本初の人工衛星「おおすみ」をL-4S-5号機で打ち上げるまで、ラムダシリーズロケットは失敗と改良の繰り返しでした。それでも当時の子供達の多くは、日本が世界で4番目に「人工の月」を作ることを信じて応援し続けたと聞いています。一方、長い不況から抜け出せない現在の日本では、宇宙報道に「失敗」の文字が一回でも躍ると、計画全てを否定する短絡的な論調が横行しています。一体たった30年の間に、日本はなぜこれほど科学や宇宙に夢を託せない社会になってしまったのでしょう?

ここに不思議な矛盾があります。実は、私も含めてMEF登録メンバーの中核をなす30歳代の世代は、生まれたとき人類はすでに月を歩いていて、ボイジャー探査機の外惑星探査や、スペースシャトル初飛行をTVにかじりついて見入り、カールセーガンが著書「COSMOS」で提示した新しい宇宙観に衝撃を受けた子供時代をすごしてきたのです。未知の惑星間空間を切り拓く仕事にわくわくし、自分も大きくなったらその一端を担いたいと強く願ったのは、決して私だけではないでしょう。しかし正にその30年の時の流れが、日本国民のL-4S時代の熱意をH-IIA時代の雰囲気にまで冷却させていったのも事実です。この二極分解の原因はどこにあるのでしょう?

確かにこの30年間で宇宙開発・研究は進展しましたが、高度経済成長とともに大型の国家プロジェクトが目立つようになりました。その結果、現場の研究者や技術者の顔やビジョンが見えにくくなり、国民の共感を得られにくくなったことが問題の一つではないか、と私は思います。「国家レベルでないと宇宙に行かれない」。日本の宇宙開発が右肩上がりで大型化していく過程で、皮肉にも、そんな無意識が国民の中に浸透していったのかも知れません。

しかし日本の宇宙開発・研究の黎明期は、もっと自由で、個人的で、そしてチャレンジ精神に満ちていたのではないでしょうか?日本が敗戦の荒野から立ち上がろうとしていた1950年代、世界がジェット機開発に躍起になっていた時すでに、「世界中どこでも小一時間で行かれるスペースプレーンを創ろう!」と提唱した一人の天才が登場して、(工業化の波に乗れば将来を約束されたであろう東大工学部なのに、)その人物のビジョンに共鳴した学生達がペンシルロケット開発に着手しました。「自分の作った乗り物で宇宙に行きたい」「自分が作った装置で宇宙の謎に挑戦したい」。彼らのそうした純粋な願いこそが、この国の宇宙開発・研究の原点であり、その熱意がメディアに正しく乗ったからこそ、当時の国民もそれを応援していたのではないでしょうか?日本の宇宙開発・研究は決して、官僚主導による外国からの技術導入が起源ではないはずです。宇宙3機関統合を来年度に控えた今、我が国の宇宙政策は国際化、商業化、重点研究など様々な課題を抱えています。しかしそうした歴史の転換点にこそ、私達は原点回帰すべきなのかも知れません。

だとするならば、顔と名前を明かし、市民参加型で惑星探査案を作成しているMEFの役割は、今後益々重要になるでしょう。社会制度としては、宇宙の研究現場と市民の間のギャップを埋める役割は、本来メディア、科学館、公開天文台、学校教育の現場などが担っています。しかし諸事情でそれが見込めない場合、例えばスポーツや芸術の世界では、一般市民による「サポーター集団」や「ファンクラブ」がその機能を補います。NASAの場合では、当局が黙っていても、米国の宇宙開発研究の情報収集・開示を独自に行う「NASAウォッチャー」が各地に存在し、ネット上でも精力的に情報発信をしています。彼らは「勝手連」的な宇宙科学のサポーターであると同時に、「市民オンブズマン」の機能も果たしているのです。その結果NASA当局にも、市民の応援と監視に応えられるレベルの仕事が求められ、研究予算の正当化・公正な競争の実現、およびアウトリーチ活動の質・量の向上が促されます。これからの日本の宇宙科学や惑星探査でも、サポーターとのこうした良好な応援・監視の関係を築くことが原点回帰の早道であり、MEFはその焦点の一つになろうと努めています。

もとよりMEFの3年目は、「MEFレポート」の完成から次期小天体探査ワーキンググループの発足と、MUSES-C打ち上げ・運用の応援が中心課題になります。ところで、宇宙研にて3月末に開催された「MUSES-C/1998SF36ワークショップ」でも議論の中心となって発言していたのは、ほとんどがMEFメンバーでした。続く4月にNHK衛星ハイビジョン局で放映された特別番組「宇宙大航海」に登場した日本人も、過半数がMEFメンバーでした。そしてこのようにMEFメンバーは、次期小天体探査の計画立案でも、その科学的検討の中心的役割を果たすことは確実でしょう。そうした私達の結晶である「MEFレポート」が「次期小天体探査ワーキンググループ」のたたき台として提供されることで、一般市民が創った惑星探査案が、宇宙研の正式な探査計画に反映されることになります。

もっとも今年の年末までは、MEF内のMUSES-C関係者は日を追うごとに時間との競争となり、しばらくMEFへのレスポンスが鈍るかも知れません。できればそこを周囲の方々にサポートして頂ければ幸いです。3年目のMEFにも、皆様の一層のご支援、ご協力をお願い申し上げます。

2002年05月25日 ISAS 矢野創

 

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Modified : March 23, 2017

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