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次世代太陽系探査
 

Image Credit: A. Ikeshita
 

上画像:小型の衝突装置(SCI)の表面衝突によって人工的に造られたクレータからサンプリングを行うはやぶさ2母機.離れた宇宙空間ではイジェクタカーテンの拡大する様子や小惑星周囲を飛び交うダストを観察する分離カメラ(DCAM3)が構える.
 

1990年に打ち上げられ、黄道面から離れて探査を行った Ulysses という宇宙機に注目し、その後に続く黄道面脱出ミッションを展開するという投稿から始まった小天体探査フォーラム(以下MEF)でしたが、そもそものこのフォーラム創設の意義は、(当時の)宇宙科学研究所が実施できる規模の太陽系小天体探査ミッション実現のために、惑星科学や航空宇宙工学、天文学、エレクトロニクス、情報科学、通信、熱設計、プロジェクトマネージメント、教育・啓蒙、政治的サポートなど、様々な専門からの意見を集約しようというものでした。
具体的には、Post Muses-C(ポストはやぶさ)計画の立案に深く関わろう、さらに望みを高くすればプロジェクト自体をこの MEF 案で立ち上げたいというものであったと思います。
結果としては、2004年01月の「MEF Report 最終版」の完成を以って、ISAS 理学委員会による次期小天体探査ワーキンググループの設置認可が2004年度初頭となりました。

はやぶさ初号機はその発案から実施に到るまで17年ほどを要したと言います。対象天体が二度の変更を受けて「1998 SF36(イトカワ)」に決定するなど、紆余曲折があったことを踏まえても、通常のプロセスを経て10年以上掛かるのが日本の惑星探査の「構造上」の常でした。しかし、、、
2006年に「はやぶさ」地球帰還が危ぶまれたとき、宇宙研を中心とした研究者は直ちに「はやぶさ後継」の準備に掛かります。そして2010年までにはプロジェクト化する為の予算折衝を本格的に行っております。打ち上げウィンドウであった2014年のスケジュールも決まっており、その素早さに「おや?」と感じられた一般の方々も少なからず居たはずです。
当時は初号機の地球帰還への一縷の望みを掛けてコアメンバーが運用に携わって居られたにも関わらず WG の前段階も踏まずに僅か数年で打ち上げまで漕ぎ着けたのです。

何を述べようとしているかはお判りだと思いますが、あえて言いますと、2004年度の次期小天体探査ワーキンググループが認可されたのち、将来、どのようなミッション形態であれ即座に対応出来る、またはどんなミッション項目であっても「差し込む」ことを出来る準備が WG 内では出来ていたということなのです。

2000年 MEF 発足当時の ” 初期検討を振り返って ” みると、以下にある池下章裕氏(スペースアートクリエイター)によって描かれた探査想像図のようなミッションは、MEF 初期検討の中で当たり前のように議論されており、また2014年12月はやぶさ2打ち上げ直後に行われた、広く一般からの寄付による搭載カメラを使っての「サンプラーホーン伸展自撮り」なども、MEF アウトリーチペイロード案として挙がっていたものでした。

以下は、MEF ファウンダー矢野創氏が寄稿してくれた、MEF としてのはやぶさ2打ち上げまでの経緯とその後の進展です。上述した経緯とは色彩が若干違いますが、内容はほぼ同じです。
” はやぶさ2リフトオフに際して:孵卵~ポストはやぶさの DNA ~ ”
(寄稿集収録)
 

ポストはやぶさ2時代の MEF による小天体探査構想

上述の2004年度初頭に発足した「次期小天体探査ワーキンググループ」の進捗を直焦点で見てみると、「はやぶさ Mk-II」に至っていることが「観測」出来ます。日欧共同計画の枯渇彗星核サンプルリターン&着陸探査「マルコポーロ」として、欧州宇宙機構(ESA)のコズミックビジョン中型クラスの公募に提案という深化・発展がありましたが、最終選考で天文観測ミッションに遅れを取りその実現は潰えました。ただ、このときの日独の共同検討が、「MASCOT」という 10 kg 級の DLR 製着陸機を「はやぶさ2」探査機へ搭載することに繋がったのは言うまでもありません(この辺りの経緯も上記の矢野氏の寄稿にあります)。

MEF へは以下から参加できます。
” 小天体探査フォーラム参加登録 by FreeML ”