寄稿集
新大陸で待っていた隕石
Author : Takahiro Hiroi
日経サイエンス2001年08月号「世界の研究室から」から転載
画像左から:高圧鉱物が発見された HED 隕石(東北大学). HED 隕石の中の eucrite に分類される Millbillillie 隕石(東京大学). Dawn 探査機撮影の HED 隕石起源母星と見られる小惑星ベスタ.
1969年夏、世界中が米国ヒューストン経由の映像に注目していた。アポロ11号による人類初の月着陸。8歳の私も両親とともに深夜、白黒テレビでその様子を見ていた。そして十三歳の時に見た『日本沈没』。あの不動の信念を持つ地球物理学者である田所博士に憧れた。あの時、私の人生の方向は決まっていたのかもしれない。
今を去ること11年前の1990年05月05日、午後05時55分のアメリカン航空で私は成田を発った。初めての米国。二年間のポスドク研究員としての期限が切れ、助手の口にもすべてふられ、かろうじて山田科学財団から一年間の海外派遣援助が出て、追われるように日本を離れた。
着いた所はロードアイランド州プロビデンス。白く美しい州議会議事堂と欧州風の建物が並ぶ町並みに、赤レンガと緑の芝生が青空に映えるブラウン大学。05月の暖かい木漏れ日の中にリスが遊び、学生が芝生で憩いの時を過ごしていた。私の職場は、惑星地質グループのいる3階建ての小さな建物だ。
私の先生であるカーリー・ピータースは人のよい貴婦人という感じ。「あなたはちょうど良い時に来た。実験室を刷新したばかりだ」と言って中を見せてくれた。アポロ11号が持ち帰った月の試料のために米航空宇宙局(NASA)が組み立てた、手作りの可視・近赤外分光計が置いてあった。
私が惑星科学の分野に踏み込んだきっかけは、修士課程で鉱物の分光に取り組んだことだろう。輝石の粉の反射率を可視光・近赤外光の波長に対してグラフにすると、なだらかな曲線に二つの左右対称の吸収帯がくぼんで見える「反射スペクトル」が得られる。このような美しい吸収が出るのはなぜだろう、と素朴に思った。初めはその結晶光学的な解明をしていたが、段々と小惑星と隕石の関係をつきとめるのにそれを応用する研究へと移っていった。
私はそれまで、比較的白っぽい S 型(石質)小惑星と隕石との関係や、そのための混合モデルや結晶光学の研究を集中的に進めてきた。しかしここに来て、科学者として誠実に真理を研究することの大切さを初めて学び、自分のモデルの検証・拡張に取り組み、過去の研究の締めくくりをしたと言える。
ブラウン大学に来て一年少しとなり、お金も尽きようとする時、NASA ジョンソン宇宙センターでのポスドク研究員の職に受かったという通知があり、ヒューストンに行った。そこには炭素質隕石の研究をしているマイク・ゾーレンスキーがいた。
マイクはある日、私に炭素質隕石の粉を持ってきて、測ってみないかと言う。私は白っぽい隕石しかやったことがなかったが、とにかくそれを測って、黒っぽい色をした C,G,B,F 型小惑星(いずれも炭素質小惑星)と比べてみた。ところが、最も一般的な CI,CM という炭素質隕石は、多くの小惑星とは全くスペクトルの形が合わないではないか。しかし、小惑星とよく合うスペクトルデータが三つだけブラウン大のデータベースにあった。Y-86720,Y-82162,B-7904 という日本の南極探検隊が拾ってきた隕石で、故郷の小惑星で熱変成を受けたらしいものとわかっていた。
それがきっかけになって、今度は実験室で加熱した別の隕石をマイクがくれ、それを測ると私の考えを裏付けるデータが出た。この内容は「C,G,B,F 型小惑星の熱変成の証拠」と題して Science 誌に発表した。後で聞いた話では、それら三つの隕石は、私が行く直前に東京の国立極地研究所からカーリーに送られたものだった。しかし私がその真価を見いだすまでは誰もそのスペクトルの特殊性に気づかなかった。
ブラウン大学があるプロビデンスは「神の摂理」という意味だという。宗教迫害を逃れた清教徒は、1620年にこの付近に上陸し、先住民に助けられてボストンに植民地を築いた。そこから分かれて南下したロジャー・ウィリアムスは、「神に導かれてここに来た」と信じてプロビデンスと名づけた。私も追われるように日本を出たが、三つの隕石が待っていてくれて、カーリーやマイクに助けられた。これを考えると、他人事とも思えない。
廣井孝弘 - ブラウン大学
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Modified : March 23, 2017