The Planetary Society of Japan

The Planetary Report

Archive 1997

 

月の形成小史

小誌を他の科学誌から際立せる要素の一つに、例えば、ある発見の体験談を直接その当事者が寄稿してくれることである。この「月の小史」もこの好例で、筆者のハートマン氏が、ドナルド・デービス氏との共同研究に基づいて提唱した「月の形成説」について、優れた論文を寄稿してくれました。筆者は惑星科学研究所勤務の上級科学者であり、優れたスペース・アーティストでもある。筆者には、1997年に出版された火星探査を描いた 処女作の「Mars Underground」がある。[ 1997年09月/10月 ]

William K. Hartmann(惑星科学研究所上席研究者)

 

「アポロ計画で、どんなプラス材料が得られたのか」と、我々惑星科学者はしばしば報道記者から質問を受ける。画期的なアポロの月への旅をテレビの生放送で見ていた我々は、質問を浴びせる記者の中にはアポロの着陸当時は未だ生まれてさえいなかった若い熱心な記者がいることを知り驚きを禁じ得ない。こうした質問に対して私自身は、それは惑星協会の基本原則であると同時に創設者の一人であるカール・セーガンの理想でもある次のことを強調することにしている。つまり、「我々が地球環境を語ることは、もはや単に隣人の庭の芝生とか全地球の生態系のことではなく、大宇宙の環境について語ることである」と。

もはや我々は地球の姉妹である天体、月の歴史を語ることなくして、我々の地球の歴史も語ることはできない。なぜなら、二つの天体には強い結びつきが存在するからである。地球と月は太陽系の中を二重天体系(二重惑星)として移動しているからである。アポロ計画までは、地質学者でさえ月の歴史に関する知識は皆無に近く、必然的に地球の歴史についても化石によりつまびらかにされた部分のやっと 10~20% を知るにすぎない。

アポロ計画までは、小惑星と彗星の衝突が地球の過程の中で重要な意味を持つことについて、地質学者は過小評価していた。アポロ計画により月の歴史は明らかにされた。アポロ計画のおかげで、地球史の前半で欠落していた数多くの章節を埋めることができた。アポロ計画は、我々人類は大宇宙という環境に住んでいることを気付かせてくれた。月の歴史は大雑把に幾つかの時代に区分できる。但し、区分の境界線はきっちりと明確なものではない。場合によっては過程の区分が重なり合ったり、あるいは次第に消滅してしまう場合もある。従って、便宜上様々な過程の区分年数を概数で表わすのである。
 

アリゾナ大学のビリー・ベンツとジェイ・メルソン両科学者とそのスタッフが作成した月の誕生を解析したコンピューター画像である。火星サイズの天体が原始地球に衝突した1時間半後、岩石が蒸気のように白熱と化した物質となり宇宙空間に飛び散った模様を描いたもの。
 

 

月の起源は45億年前

45億年前、おそらく内部太陽系の歴史上最大と思われる天体が生まれたばかりの地球に衝突し、その結果飛び散った岩石の残骸で月は形成されたものと考えられている。この衝突分裂説(部分的にはアポロ計画で得たデータで立証された)で、科学者を悩ませていた数々の謎が解明された。

例えば、母惑星と大きさがその1/4の衛星とで形成される地球・月二重惑星系は、太陽系の惑星の中でも独特、あるいはほぼ独特に近いものである。冥王星と衛星のカーロンも、同じく二重惑星系であるが、母惑星の冥王星は月よりも小さく、ある意味では、大きな小惑星で形成された二重惑星系により近い。いずれにしても、統計的に見ても、このように巨大な衝突による衛星の形成は、8個か9個の惑星中僅か1個か2個の惑星にしか起こらない現象なので、我々の地球・月の二重惑星系がいかに例外的なものであるか説明がつくのである。

この巨大衝突説で説明が付く、アポロ計画以前から存在していた二番目の謎は、地球の主要組成の鉄が月には非常に少ないことである。つまり、月の密度は水の約3倍で組成は岩石である。これは地球の全体的な組成と異なり、むしろ岩石質のマントルの物質に似ている。衝突が地球の中心核の形成後に起こったと仮定しよう。地球と衝突天体の両方から岩石質のマントル物質が吹き飛ばされて残骸破片となって地球の周りに密集する。巨大天体衝突説によれば、月はこの残骸破片で形成されており、月が地球のマントルに似た物質でできているのはそのためであるとのことである。

三番目の謎は、地球には水や他の揮発性物質が豊富であるが、月ではそうではないことである。この違いも、巨大物体衝突で説明できる。つまり、噴出物が超高温で熱せられた結果、水や蒸発性物質は気体となって、残骸破片から宇宙空間に漏出してしまったのである。月の岩石を調べた結果、月の組成は地球と全く同じ酸素同位元素でできていることが明らかになった。つまり、地球と月には異なる酸素同位元素が同じ比率で存在するということである。しかし、太陽系の他の場所からの岩石(火星の岩石や様々な種類の隕石)は異なる酸素同位元素組成を持っている。

このように酸素同位元素のデータにより、月は何処か他の場所で形成された後地球に捕らえられたとする従来の説は否定された。この酸素データは、地球と衝突物体が同じ酸素同位元素の化学組成を持っていたことと、揺籃期の地球にぶつかった衝突物体は、地球・太陽間とほぼ同じ距離の場所で形成された微惑星であったことを示唆している。
 

衝突の5時間後、月が形成された。この画像には、宇宙空間に放出された長い吹き流しのような岩屑の帯が見える。多くの岩屑が地球に落下したが、月を形成するのに十分な量の細かい破片は軌道に残った。
 

 

集合体

この衝突分裂説は正しいのだろうか。私見であるが、解答を試みてみる。1960年代、ロシアの科学者ビクトール・サフロノフは、無数の微惑星が集合して惑星が形成されたとの考えを推し進め、各惑星領域には既に多くの微惑星が誕生していたと推定した。宇宙空間で「適者生存」の掟が働き、大きな微惑星が小さな微惑星を駆逐しながら一個の惑星を形成していった。

サフロノフは、惑星の自転軸の傾きはこの衝突という過程で生じたのではないかと考えた。例えば、大きい微惑星が衝突したために、太陽系の他の惑星と比べると南北に走る自転軸の傾斜がほぼ水平になっている天王星の奇妙な傾きのように。サフロノフの研究は西欧ではほとんど知られていなかったが、同僚のドナルド R.デービスと私は彼の学説の研究を続け、微惑星の相対成長率を計算した。1974年の学会で、我々は地球の領域には地球のマントル層を衝突にによる爆発で吹き飛ばし、月を形成するに足る大きさの天体が存在したとの研究論文を発表した。

青二才の科学者であったので、研究発表を終えた時に有名な科学者のA.G.キャメロン氏が挙手した時には心配になった。彼は我々の考え方を論破するのだろうか。案に相違して、キャメロン氏は「私も同僚のウィリアム・ウオードも考えは同じである。但し、それを角運動量、言い換えれば、惑星系の全回転率の観点から研究している」と述べた。巨大天体の衝突が、地球・月系の角運動量に関する謎をある程度解決するかもしれない。原始地球に注がれた全角運動量のモデルを総合すると、我々が提唱したよりも更に巨大な、ほぼ火星の大きさの衝突物体に衝突された筈であると両氏は語った。

1975年、デービスと私は我々の研究を出版した。キャメロン・ウオードの両氏も翌年出版した。しかし、いずれの考察もほとんど注目されなかった。何故かといえば、衝突説は地球物理学上の説明方法としては「好ましくない」と教育された他の研究者にとっては、この説はまさに晴天の霹靂以外の何物でもなかったからである。彼等によれば、我々の「特殊説明」を受け入れる前に、他の学説も検討されるべきであるとのことであった。数年後、彼等も壊滅的衝突が太陽系の形成に一役買ったとの考察に同調し始めた。巨大衝突説は、1984年の月の起源に関する学会に於いて有力な学説として認められた。

それ以来、階層的衝突なしでは、惑星の形成はあり得ないとの新たなコンセンサスが出来上がった。数兆個もの小物体の衝突は、例えば円軌道、同方向回転運動(逆時計回り)や自転軸の浅い傾きのような惑星全般に共通する運動特性を生み出す作用をした。その上で、少数の巨大天体の衝突が、その衝突のタイミングや角度に応じて、天王星の「極端な傾き」や異常に大きい地球の衛星のように、個々の惑星を特徴付ける「総仕上げ」を行ったのである。
 

力学的にみると、地球から放出された岩屑はリングを形成し、月はそのリングの外側の物質が集合してできたものであろうという事になる。リングの内側の物質は、最終的には消滅した。
この画像は、大きな影を地球に投げかけている初期の月を描いたものである。当時は、惑星間の岩屑は彗星の形態を成すのが一般的であった。太陽系を生み出した星を形成する星雲が背景の彼方に見える。
 

 

44億年前に形成された高地の地殻

衝突の岩屑から成る地球周囲の雲が集合してできた月の表面には、膨大な量の残骸破片を落下した。このため月の表面は強烈に熱せられた。この加熱作用のため、少なくとも成長期の後半の時期においては、月の表面にはマグマの海ができていた。このマグマの表面には、水に浮かぶ軟氷のような低密度の結晶体が表面に浮かび上がっていた。マグマの海は冷却して固まり、低密度の厚い地殻を形成する。

太古の高地(初期の表層地殻)は、そのほとんどが長石と呼ばれるありふれた低密度の珪酸塩鉱物の結晶でできた岩石で構成されているのはこのためである。長石は地球の岩石を形成する主要鉱物でもあるが、地表では結合凝結した状態にない。長石が集ってできた岩石は斜長石と呼ばれる。宇宙飛行士は沢山の斜長石を地球に持ち帰った。この鉱物はほとんどの月の明るい地域を構成している物質である。

斜長石は雨あられと降り注ぐ衝突天体のために絶えず吹き飛ばされ、粉々に砕かれ、処によっては再び溶解され、爆発で生ずる新たな溶岩に覆われたりしたが、おそらく44億年前までには、表層地殻は形成されつつあった。このような大破壊にも拘わらず、月の土壌には44億年以上前の状況の証拠となる岩石の塊が見られる。
 

初期の月。月の地殻が形成された最初の数億年の間は、月は今日よりもずっと地球に近かった。これは月の夜景で、空を支配する地球が見える。地球の中央に見える明るい点は、地球の海洋に反射している満月である。
 

 

月の後退と44億年前の地球との距離

形成時の月は現在よりも地球にずっと近く、距離は地球の中心からおそらく地球の半径よりも僅かに離れたところ(おそらく地球の中心から 2万4000km の所。現在は地球から38万km 離れている)にあった。地球と月の間に生ずる潮汐力は、月が地球から離れていく原因となった。惑星とその衛星の引力の相互関係で生ずる潮汐力は、惑星とその衛星の距離が近ければ近いほどますます強くなる。その結果、月の後退速度は最初は速く、後になると緩やかになる。

最初の数百万年が経過するまでには、月は現在の地球と月の距離の中間まで移動していた。こうしたことは、月が現在も依然として地球から後退しつつあることや後退速度を正確に測定しているアポロ計画の宇宙飛行士が月面に残してきたレーダー反射器やロシアのルナホート・ローバー(Lunakhod 自動月面移動車)のデータが何よりの証拠である。
 

地質活動の停止。これは月が現在の位置近くまで後退した図で、最後の火山性カルデラが活発に噴火しているのが見える。青く光る地球がオレンジ色の火山の光芒とコントラストを成している。
 

 

44~40億年前の激しい衝突の爆弾攻撃

衝突は地球・月系の揺籃期を理解する上で不可欠の要素である。様々な年齢の岩石が散乱するアポロの着陸地のクレーターを数えて、40億年前の衝突回数は現在の数百倍であったことが判明した。事実、激しいクレーターの形成で古い地表は次から次に消し去られてしまったので、40億年より以前の衝突回数を正確に探り出すことは困難である。

この月の初期に激しい衝突が起こったとする説は、惑星が惑星間の残骸をかき集めて成長していったという我々の考え方と見事なまでに一致する。同位元素の分析からみると、地球は45億年前の約5000万年という短い間に現在の大きさになったことがわかる。5000万年の間に地球規模の質量に達するためには、大雑把に言って現在よりも約10億倍の衝突回数が必要になる。言い換えれば、地球初期の衝突回数が40億年前までの間に今日の衝突回数の10億倍から数百倍まで低下したということである。

この衝突回数の減少は、惑星が惑星間の「がらくた」をかき集めた回数と計算上ほぼ一致する。つまり、太古のクレーターで覆われた月の表面は、地球・月系の起源となった衝突過程の最終段階であったことを示している。

これがはっきりしたことで、我々の地球やその他の惑星に対する理解が変わってきた。初期の地球自体が激しい衝突の攻撃に晒されたことは、アポロの月面遠征が行われるまではわからなかった。例えば、ある地域では巨大な孔を作る衝突で地殻が削られて薄くなり、また別の地域では地殻噴出物が積み上げられて大陸の大きさの地塊となった。

一方の半球の地殻は古くてクレーターだらけで、もう一方の半球には巨大な火山が存在する火星の驚くほど不釣り合いな地域が形成されたのは、この過程が原因と考えられるかもしれない。また、激しい衝突は初期の地球の気候と地表を非常に不安定にし、そのために生命の安定的な定着が遅れる原因となったのかもしれない。ご存知の通り、6500万年前に恐竜とその当時の種族の 75% は衝突により絶滅した。この時の衝突回数は現在の1万倍で、その激しさは、地球初期のそして数千年毎に起こる衝突に匹敵するものであった。
 

40億年前の大破局は存在したか

アポロ計画の宇宙飛行士は、地球・月系の起源と同時代のジェネシス・ロック(天体と起源を同じくする岩石)を探すことになっていた。しかし、約40億年前に過程の中断が起こっていたようである。アポロ計画で持ち返られた最初の月の岩石を分析した地球化学者、とりわけ、カリフォルニア工科大学のジェラルド・ワッサーンバーグやその他の学者で構成された調査班によると、この中断は40億年前に一時的に急増した衝突回数によりそれ以前の地表や岩石のほとんどが破壊されたためと推定した。この仮説は、惑星の形成の最終段階に急に起こる出来事を意味する、終末大殻激変(terminal cataclysm)と呼ばれるようになった。この衝突物体の発生源については、様々な仮説が次々に出された。

一方、年齢がほぼ40億年の岩石の中断は大激変のためではなく、単に衝突回数の急激な減少が原因とすることで説明が付くかもしれない。このシナリオでは、42億年前に月の表面地層の中で形成された岩石は、いずれも激しい衝突に晒されて瞬間的に粉々に砕かれてしまい、38億年前に形成された岩石は、ずっと少ない衝突回数のおかげで現在まで生き延びてきたのであろうということになる。

40億年前の衝突回数に関する二つの仮説―漸減説対急増説―については、今でも議論は続けられている。ヒューストン在住の研究者グラハム・ライダーは、(クレーターには)昔から衝突で溶解したガラス質の物質が無いことから漸減説を支持している。この物質は衝突地点の岩石が溶解し、飛散した後に急速に冷却してガラス状の破片や飛沫になったものである。40億年以上の古いガラス質の物質が少ないことは、衝突回数が大激変以前より少なかったか、あるいは原始ガラス物質の破片が激しい衝突により微塵にされたのか、どちらなのだろうか。もし大激変が起こっていたとしたら、その時代の地球の地質的および生物学的発展に強烈な影響を及ぼしていたことであろう。
 

ファミリー。月の 5万4000km 彼方からの眺めで、地球と月は二重惑星を成し、歴史的にも密接につながっていることが窺える。
 

 

40~30億年前の溶岩原の形成

外部要因によるクレーター形成が進む中で、月の火成作用は月の内部でも続いていた。大抵の天体のように、月もまた1600年代のアイザック・ニュートン、1700年代のジョージ・ビュッフォン、そして1800年代のパーシバル・ローエルなどを含めた様々な研究者により伝播された「他のすべての条件が等しければ、小さい惑星は大きい惑星よりも冷却が速い」という自然法則をたどったのである。つまり、小さい焼きじゃが芋は大きいものより速く冷えたのである。月の地表下の地熱は最初の僅か10~20億年間保たれただけで、火山活動も衰退していった。

現在の地球の地表下にマグマが存在するように、火山活動が続いた月の地下数百kmにはかなりのマグマが存在した。巨大な衝突物体による割れ目が月の地表層にできると、深部の溶岩が地表への出口を求めて上昇し、地上に噴き出し、窪みを満たして巨大な溶岩の溜まり作る。この溶岩の噴出でできる岩石の種類は、地殻から出る明るい色の斜長岩ではなくより黒っぽい色の溶岩である。この溶岩は一般的に玄武岩として知られている種類の岩に属し、今日も依然として地球の火山から噴き出している玄武岩に似ている。

40億年前に形成された玄武岩性溶岩の広がりは、荒々しい衝突により急速に消し去られたか、少なくとも、噴出物の下に埋め込まれた。太古の玄武岩の痕跡は、明るい色をした堆積物や黒っぽい色の玄武岩から成る堆積物が衝突で打ち抜かれてできた暗く縁取られたクレーターに見られる。これは、最近ハワイ大学のB.R.ホークやジェフ・ベル等の研究者が行った分光観測で明らかにされた。非常に古い玄武岩流の痕跡は、ガリレオ探査機が撮った古いクレーターで覆われた月の裏側のマルチ・スペクトル画像にも見られる。

40億年以降に形成された溶岩地域は、衝突の回数が減った時期なので保存状態がずっと良い。この溶岩地域は、月面の黒っぽい色をした広大な溶岩平原のように見える。溯ることほぼ38億~30億年前、溶岩流が様々な月の地形を作り上げた。これ等の地形は「月の人間」とか「月の兎」などのように、長年文化の違いによって様々な形になぞらえられてきている。溶岩平原はそれを初めて望遠鏡で観測した人が海と間違えたために、ラテン語の海に当たるmaria(マーリア、単数形はmareでマーレと発音される)と名付けられた。
 

ここ数十億年の間の月。人類が訪問する事を除けば、月は生命の無い比較的静かな世界である。極く小さい物体の衝突で地表から砂塵が上がり、時々起るやや大きい物体の衝突で、ここに見えるような余り大きくないクレーターが形成される。これは月の正午の図である。
 

 

活動の停止と新たな始り

30億年前までには、月は今日の状態にずっと近づいていた。約20億年前までは、おそらく幾つかの溶岩流があちこち部分的に噴出していたであろう。月が活動を停止した時には、地球・月系の歴史の半分は終っていた。月の溶岩平原の空の高みに見える当時の青い地球の陸地は荒野であったが、海では多細胞の生命が生成されつつあった。月の歴史はほぼ終っていたが、地球生命のエキサイティングな物語は未だその序章に過ぎなかった。

昔の望遠鏡の観測では、散発的な未確認気体の放出は報告されていたが、「月では何も起こらなかった」ということになっていた。しかし、1969年に至り、遂に人間がひょろ長い探査機に搭乗して地球と月の宇宙空間を飛び越えることに成功した。窪みの少ない玄武岩の平原は比較的平坦な地面に恵まれていたので、最初の2度の着陸地に選ばれた。この着陸地はかの有名な「静かの海」で、ラテン語でMare Tranquillitatis、英語でthe Sea of Tranquilityと呼ばれる。

月は静寂そのものである。しかし、我々は宇宙の海を旅する能力を開発するだけではなく、未解決の問題を締めくくるために、間もなく月の探査を再開始することになるかもしれない。その計画の一つは、未来の月探査のために月の基地周辺の、例えば、5000 の衝突クレーターの形成時期を測定することである。この測定により、形成時期と衝突回数の相関図表を作製し、数百万年単位でクレーターの細部や構造の分析結果をグラフで図示すことができるであろう。この位の精度ならば、40億年前に大激変が起こったかどうかをはっきりと立証できるであろう。

また、恐竜を絶滅させたのは唯一度の無差別衝突なのか、それとも誰かが言ったように3000万年前後で繰り返される無差別衝突の波状攻撃の結果であったのか、その結論を出せるかもしれない。これは月の探査を再開するための価値ある目標、つまり惑星地質学者、惑星力学者、惑星生物学者の共同且つ包括的な研究で、地球・月の二重惑星系に於ける生物学上の課題や、ためらいの見られる知的生命の探査を前進させるために意義のあることになる。
 

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