The Planetary Report
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カール・セーガンは、科学を理解し科学の大衆化に貢献したたぐい稀な存在であった。私が知っている、彼のように世界的でしかも一般大衆に科学を分かりやすく伝えられる科学者は、たった一人、トーマス・ハクスレーだけである。1世紀半前、チャールス・ダーウィンやアルフレッド・ラッセル・ウォレスの進化論について書を著し、講演を行ないそして遂に進化論を一般大衆の理解に至らしめたのが、このトーマス・ハクスレーであった。ダーウィンの進化論が広く大衆の理解を得たことが、20世紀の歴史を形成した文化的枠組みとなったことには疑問の余地はない。カール・セーガンもハクスレーと同様の衝撃を今世紀に与えてきている。そしてそれは次の世紀に好結果をもたらすことにならだろう。
「生命の起源とは何か」、「人間になることとは何か」、「知性とは何か」。セーガンとハクスレーが、このような根源的な問題に関心を抱いたことは興味深いことである。しかし、これ等の問題に対する論理的解答は未だ現れていない。あらゆる世代にこの問題を問いかけ、議論を巻き起こして人類の運命について非常な力を注いだのは、19世紀のトーマス・ハクスレー、20世紀のカール・セーガンをおいて誰がいるだろうか。カールは世を去ったが、彼の残した影響力は未来に向けて広がっていくものと私は確信している。それはちょうど、1859年のハクスレーの死後、彼の著作の購読者が増したのと同じように。
私が始めてカールに会ったのは、1961年か1962年、彼がロスアンゼルス大学バークリー校のミラー研究所の教授で、私が同大学の工学部教授をしていた時である。当時、私はバークリー校舎の物理学部とリバーモアにある同校の核兵器研究所の双方と緊密な関係を持っており、4年生に量子力学を教えていた。そしてカールは、時折私の講義を聴講していた。彼は全く別の事に取り組んでいたのだが、知識のリフレッシュをしたかったらしい。大学が与えた最高の名誉であるミラー研究所の教授職にある人が私の講義を聴講する事実は、大いに私の注目するところであった。当時、私はカールをよく知っていなかったが、彼が忘れ得ぬ印象を私に与えたことは紛れもない事実である。
ほぼ10年後、私はカールと再開し、この時彼と仕事を共にする機会を得た。当時、私はNASAのエイムズ研究センターの所長になっていた。カールは既に科学者として押しも押されぬ立場にあったが、同時にジェット推進研究所(JPL)において、探査機マリナーの火星フライバイ・ミッションのスポークスマンとしても活動をし始めたところであった。NASAはエイムズ研究センターのパイオニア10号の木星フライバイについても、カールに協力を要請していた。
パイオニア10号のミッションにおける彼の仕事振りは、非常な注目浴びた。サンフランシスコの公共テレビ局KOEDがこのミッションの全てを放送したのである。このテレビで、彼は番組制作と司会を受け持ち、またニュース番組のアンカーマンもつとめるという八面六臂の活躍であった。数年後、有名なテレビ・シリーズのコスモスがこの公共テレビ局で開始された。パイオニア10号のミッションでの彼の活躍は、ある意味では、その後のカールの活躍のリハーサルであったとも言えよう。
カールも私も、太陽系や宇宙のどこかに生命が存在する可能性に非常な興味を持っていた。そしてエイムズ研究センターは、火星探査機バイキングに搭載する生命探知装置の開発と運用を担当することになった。このNASAの研究施設は、故人バーニー・オリバーによる地球外の知的生命探査(SETI)活動を支援していた。こうしたことも相挨って、カールのSETIに対する興味はJPL時代(1973年)にますます増していった。
爾来、カールと私は興味ある共通のテーマについて幅広く議論する間柄になった。二人の間では、意見は概ね一致を見たのであるが、根本的にどうしても合意しない点が二つあった。宇宙の有人探査とソ連との関わり合いについてであった。
私の知る限り、1970年代のカールは概ね、有人探査は金の無駄使いだという意見であった。無人探査機によるミッションの方が科学的に高い成果をあげ経済的であると、カールは信じていた。宇宙開発計画は政治的にも、そして究極的には、技術および科学的にも有人探査が必要であると感じていた。
ソ連との関わりについては、私はソ連の科学者との研究作業については全く問題はないと考えていたものの、ソ連政府との広範囲かつ長期にわたる大プロジェクトの共同研究については懸念を持っていた。カールの考えは異なり、彼は1980年代の初め、火星の有人探査に関する共同ミッションを提唱し始めた。私はカールが有人探査の推進に賛成したことを嬉しく思う一方、2世紀以上の歴史の課程で、アメリカとの共同作業に反対してきたソ連の体制と組みすることには賛成できなかった。こうした意見の相違を埋めるべく議論を重ねたが、解決しようがないことは明らかであった。しかし、こうした相対立する議論と意見にもかかわらず、お互いに尊重し合う気持ちと友情を失うことはなかった。
その後もカールと私は時々連絡を取り合った。カールは、特に我々(エイムズ研究センター)の宇宙開発計画の策定に大いなる影響を及ぼした。彼は優秀な教え子を推薦してくれた。カールが最も優秀な教え子であると言っていたジム・ポラックの採用は、私にとっては最も重要な仕事の一つであった。何故なら、ジムは20年以上にわたり我々の科学探査計画で強力なリーダーシップを発揮してくれたからである。こうして、カールは彼自身とジムの両方を通じて我々の研究に貢献してくれた。こうした関係のおかげで、私が国防総省に在籍していた1978年、JPL主催で行われた、NASA公共奉仕功労賞受賞の盛大な祝賀会で、私がカールの仕事ぶりとその影響力について述べる栄に浴した。
地球および地球上に住む我々自身の大部分を形造る重元素は、この画像に見られる超新星爆発の残滓物から形成されたまばらな雲の中で生まれる。画像は1万1000年あまり前の帆座に属する星の超新星爆でできた雲を撮影したものである。
こうした星の中心で生まれた重元素の中には、生命形成と称する過程の中で結合し自己複製を行なうものがある。この画像に見られる合成体、デオキシロボ核酸(DNA)はそ一つの例である。
今振り返ってみると、 時の経過の中で、我々の意見の不一致は解決されたように思われる。共産主義もソ連も今や歴史的事実となってしまい、我々はロシアの科学者とカールが言う「共に火星に行く」ために何をなすべきか、その解明に向けて共同作業を行なっている。宇宙ステーションミールとスペースシャトルは、カールの夢であった火星の有人探査を実現させるための礎として国際的な宇宙基地の役割の一部を担っている。
カールと私の意見不一致は、時が経るにつれて最早無意味なものとなっている。二人が合意したことは永遠の価値とそれに伴う重要な結果をもたらした。宇宙のどこかに存在するであろう知的生命の探査は今も続けられている。そしてカールこそ、地球外の知的生命探査の拡大を世にはっきりと唱導した人である。私はといえば、SETIに対するNASA予算の投入継続のために闘った。1983年の上院予算歳出委員会において、当時のプロクシマイヤー委員長の反対にもめげず、SETI計画の継続に賛成の過半数を得ることができた。現在、NASAのSETIに対する対応は好ましいものではないが、カールの努力とリーダーシップのおかげで別の方途で存続している。
NASAはいずれは、SETI計画に対する予算を復活することになるだろうと私は信ずる。更に重要なことは、宇宙探査の結果とその成果を一般大衆に知らしめるというカールの努力が末永く価値あらしめられることである。来るべき千年紀の数年の間に、人類は実際に太陽系にその活躍の場を拡大する第一歩を踏みだすであろう。その時こそ、カールが推し進めてきたことは、その大事業推進する人達のまたとない考察指針となろう。そしてそれがカールの残した永遠の遺産である。私はカール・セーガンとの知遇を得、彼の友人足り得たことを名誉に思うのである。慎んで哀悼の意を表する。
筆者は、前エイムズ研究センター所長で、現テキサス工科大学の工学教授であり、同校のジョン・マケッタ・センティニアル・エネルギー研究所長である。惑星協会の審議委員でもある。
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