The Planetary Society of Japan

The Planetary Report

Archive 1997

 

教師としてのカール・セーガン

[ 1997年05月/06月 セーガン追悼号 ]

Christopher Kyba

 

太陽光の梁に吊り下がっているように見える淡い青色の点(a pale blue dot*)。探査機ボイジャー号のカメラ振り返ってがとらえた我々の地球である。カール・セーガン曰く、「この小さな水の惑星のかけがいのない尊さを、この画像は訴えているのだ」と。*A Pale Blue Dot はカール・セーガンの著作名で、日本語のタイトルは「惑星へ」。
 

 

カール・セーガンは、全世界に科学をやさしく説いた教師の元祖です。しかも、大評判の著作やテレビ番組(コスモスはシリーズのテレビ番組として制作された)で有名になるずっと以前から、大学の講義やセミナーなどの小規模の場でも、飛び抜けてすぐれた教師としての名声を得ていた。一般の学生も、大学院で高等教育を受ける学生も同じように、この科学を愛した教師の心が高揚する素晴らしい授業を享受したのです。カール・セーガンの存在が、生涯の仕事として科学を選択する非常に重要な動機づけとなったと、多く科学者が語っています。学生時代に、カール・セーガンから熱意溢れる返事をもらった経験のある科学者がいかに多いことか。

私自身について言えば、大学院で物理学の研修で海外に滞在していた時、カール・セーガンが発表した科学調査の報告に触れ、これがきっかけで生涯の研究テーマを変更する決心をしたのです。彼のもとで勉学を続ける期待を抱いて、コーネル大学の天文学部の門を叩いたのです。ある日突然「カール・セーガン博士にコレクトコールせよ」との電報があった。そして話を交わす前に手紙が届き、それには興奮を禁じ得ない探査機とそれ等のミッション計画の長いリストが書かれていた。そして、その中の幾つかのミッションの実地作業とデータ分析に参加する機会を下さる旨添え書きがしたためられていた。私はこの手紙に圧倒されてしまった。カール・セーガンの熱意は人の気持ちを高揚させ、そして熱意を憧憬に変える十分な説得力があった。

カール・セーガンは、このたぐい稀な熱意を全ての授業で示したのである。彼のプロデュースになるテレビ番組シリーズ「コスモス」は、テレビという電波メディアをとおして彼が長年教室で教えてきたたことの集大成である。カール・セーガンと妻のアン・ドルーヤンとコスモスを共同執筆したスティーブ・ソーターは、カール・セーガンがハーバード大学を辞して赴任してきた当時のコーネル大学の大学院の学生であった。

或る日、カール・セーガンが科学専攻でない学生に対して、地球の上層大気から宇宙空間へ分子が逃げていくプロセスを説明する様子を見ていた。カール・セーガンは個々の分子の役割を自ら舞台俳優よろしく演じ分けて見せ、このプロセスで重要な分子がぶつかり合う場面では、「シューッ」という音を交えて解説した。つまり、聞き手を熱中させるにしても、ユーモアでただ単に笑いころげさせるだけでも、カール・セーガンは常に科学を正しく平易に語った科学の伝達者であった。

この情熱は、大学院のセミナーでも同じであった。彼のセミナーは、深い科学的理解と類まれな伝達技術の融合そのものであった。UCLA教授のビル・ニーマンは、1973年の秋期学期でカール・セーガンの惑星科学を選択した。ニーマンは今までのどのセミナーでも経験したことのない、彼の教授法に触れることができた。例えば、光子のふらつき運動を示す「ランダム・ウオーク」の説明では、自らフラダンスを踊ってそれを解説してくれた。

私の学生時代の思い出は、カール・セーガンの二つの授業に集約される。惑星探査と生命の起源である。この授業は学生の要望を彼が受け入れてくれたので実現したもので、こうした柔軟性も教師としてのカール・セーガンの特性だった。週を追って、セミナーは彼が与える研究テーマに対する学生のアイディアで満ち溢れるようになった。そして彼のセミナーから、数多くの研究論文が発表された。私の最初の惑星科学の論文は、彼によるこうした教育環境の中で生まれたものである。

しかし、一旦論文が認められると、発表者の名前は私が単独で完成したものなので、私の名前だけてでよいのだとカール・セーガンは主張して譲らなかった。著作者として名前を連ねることについては、彼は非常に良心的であり厳正でもあった。例えば、ある研究論文を共同で執筆しても、彼が主体者でない時は、共同執筆者になろうとはしなかったし、その論文の内容の大部分が責任を取れるようなものでなければ、筆頭執筆者にはならなかった。大学院の指導教師が、カール・セーガンのように広い度量の持ち主だとは限らなかった。

カリフォルニア工科大学のデイブ・スティブンソン惑星科学教授にも私と同じような思い出がある。彼は、カール・セーガンのクラスで初めて惑星科学と出会った。スティーブンソンの期末レポートを雑誌に掲載すべきだと薦めてくれたのは、カール・セーガンだった。

デイブは、テレビのジョニイ・カルソン・ショーを見て、カール・セーガンが人を鼓舞する能力があることを知った。これは、彼が出演した初のテレビ番組である。

ハーバード大学の少壮助教授時代にも、カール・セーガンは優秀な学生を虜にしていた。そうした学生の中に、デイブ・モリソンとジム・ポラックがいた。両人とも飛び切り優秀な惑星科学者になった。ジム・ポラックは既に故人となっているが、大学院の卒業研究にとりかかっている時にカール・セーガンが次々とテーマのアイディアを提供してくれたと、よく彼の思い出を語っていた。

カール・セーガンは、教え子がそれぞれ仕事に就いた後も、彼等と一緒に研究を続ける方法を編み出した。例えば、核戦争の危険性を説いた「核の冬」では、5人の執筆の内2人はジム・ポラックとブライアン・ツーンというように、彼の教え子が執筆者に入っていた。「カール・セーガンの教え子として、彼の人間味はどうなのか」とよく質問されるが、その点については、「彼は満点だ」と正直に応える自信がある。

彼は学生にチャンスを与えるためには、あらゆる努力を惜しまなかった。例えば、ボイジャー・ミッションで探査機が、木星、土星、天王星、海王星の接近通過の時には、彼の学部の学生も含めて多くの学生をジェット推進研究所(JPL)で働けるよう取り計らってくれた。コスモスのテレビ番組制作中のとりわけ多忙な時でも、彼の指導で博士号を取得したデイブ・ピエリは、大学院の学生の時に彼の斡旋でJPLで火星探査機の着陸地点のマッピングの仕事をするチャンスが得られたと語っている。カール・セーガンのもとでミッションに参加したピエリは、後に火星のバイキング・ミッションの科学者になった。

カール・セーガンは、博士課程修了の学生の面倒もよくみた。ジーン・マクドナルドは、当時生化学の博士課程を終えようとしていたが、カール・セーガンが所長をしていた惑星科学研究所の研究員募集の広告を見て応募したところその場で採用となり、彼の宇宙生物学者としてのキャリアがスタートした。それまで、宇宙生物学と生命起源の研究のチャンスはあまりなかったのが現実だったのだ。従って、彼がビシュン・ハール博士と共に学殖の全てを賭して設立した惑星科学研究所が、この分野の研究に携われる数少ない方途の一つだったのである。

晩年に至ったカール・セーガンにとって、教え子のジム・ポラックとレイド・トンプソンの早逝は大きな悲しみとなった。異分野出身のレイドは、生物理化学の大学院時代から彼のもとで勉学に励んでいた彼の教え子の逸材の一人であった。告別式の弔辞で、カール・セーガンはレイドを温和で、親切心で、才気溢れた学者であったと語り、彼の死を悼んでいた。そして「ジムとレイドも亡くなってしまった。どうか、君はくれぐれも御身を大切に」と、しんみりと私に語りかけてくれた。もう誰も失いたくないという彼の心情が溢れていた。
 

水、陸地そして空。太陽系の中で我々の地球を特徴づける要素であり、生命を慈しんでいる温和な気候の最たる要因である。
 

 

カール・セーガンは遠慮なくどんな質問でもするようにと、いつも学生に言い続けていた。また、疑いの眼で物を観察することと公開討論の素晴らしさを公に唱導していた。そして学生との個人的な関係においても、こうした事を期待していた。どんなテーマでも、それは自由であった。研究以外の面では、彼と私の間で意見が割れることがよくあった。

彼に死が迫っていた頃学位論文をまとめたピーター・ウイルソンは、動物の権利問題で彼と度々議論を闘わせた。レイド・トンプソンの訃報の中で、カール・セーガンは、UFOについてトンプソンと意見が一致しなかったことに触れていた。トンプソンとの会話の中で、彼は宇宙に対する変わらぬ好奇心を素直に言い表し、しばしば大胆の意見も述べていた。そしてこうした中に、カール・セーガンの真骨頂が表れていた。

さて、カール・セーガンと彼の教え子達との楽しい触れ合いを語ることなくして、彼の薫陶を受けた学生の一人としての責を果たすことにはならないであろう。デイブ・ピエリと彼は、バレーボールのネットを挟んでかなり激しくぶつかり合ってしまった。それでも、彼は仰向けに倒れたままで、ピエリに明日は授業に出席するようにと冗談交じりに言ったものです。JPLでのボイジャーの打上げパーティでは、デーブ・グリンスプーン、カール・セーガン、アニー・ドルーヤン、その他全員がダンスを踊りまくり、チャック・ベリーはギターを抱えて得意の「あひる歩き」を披露していた。
 

教え子クリストファー・カイバは、彗星が地球が生命の存在に適した惑星となるにあたって彗星が果した役割についてカール・セーガンと共同研究を行なった。彗星が地球にもたらした水と有機物質により、自己増殖する生命のシステム誕生の決め手となったかもしれない。写真は、1970年のある朝、並木の上に現われたベネット彗星を撮影したもの。
 

 

しんみりした思い出もある。カール・セーガンが病の床に臥し、本人も家族も化学療法での治療が難しいと分かった時、彼と長年の研究助手であったエレノア・ヨークの死に際して彼が私に言ったことに思いを巡らせた。それは、「彼の死から教訓を得るとするならば、お互いにいたわり合わなければならないことだ」と、彼が言っていたことである。

そんな訳で、カール・セーガンの死の直後は、私がイサカに着き学生として初めて彼と話しをした時の興奮を思い出すと気が滅入った。そういえば、コーネル大学に入学後の最初の冬、アニーとカールが催したディナー・パーティーを目の当たりに思い出す。イサカの深い渓谷に雪がフットライトを浴びてきらめきながら降り注いでいくの眺めていた。ゲストの手品師ランディは、心霊現象のいんちきさについて饒舌に喋り、テーブルの間のほの暗い照明のもとで、彼の手品を披露していた。全てが神秘的で、希望に満ち満ちていて、喜びで溢れているように思われた。

筆者は、アリゾナ大学惑星科学学部助教授です。
 

1994年10月、60才の誕生日の記念に教え子とカメラに向かってポーズをとるカール・セーガン(於コーネル大学)。左から、ピーター・ウイルソン、デーブ・モリソン、クリス・チャイバ、カール・セーガン、スティーブ・ソーター、ブライアン・ツーン。
 

 

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