「カール・セーガンとはこうして識り合った」
「コスモス日本語版」朝日放送制作総責任者、高岸敏雄元協会専務理事


専門家の間でしか知られていなかったカール・セーガン博士が、日本で普遍化したきっかけとなったのは、1980年に放送されたテレビシリーズ「コスモス」とその邦訳出版でした。ここでは「コスモス」がテレビシリーズ化及び邦訳出版されるまで、そして、その後幻の作品となった「ニュークリアス」について、” 朝日放送制作責任者の高岸敏雄氏 ” が回想します。
 


 



 

カール・セーガンとの出会い

カール・セーガンとの出会いは、1979年03月に、科学ドキュメンタリー・TV シリーズで「コスモス」の企画が持ち込まれた時から始まった。
結果は大阪の朝日放送(ABC)の創立30周年記念番組の一つとして、1980年(昭和55年)11月03日から13日まで連夜プライムタイムを含む全国ネットで放送され、この種の番組としては画期的な視聴率を収めたばかりか、番組の放送を中核として進めた活字・電波両媒体と催事を連動したメディアミックスのパブリシティ展開に対して、非常に高い評価を得、カール・セーガンは一躍スターになっていった。

当時の日本では、関係分野の人達の間でしか知られていなかったセーガンだけに、朝日新聞社刊行の「コスモス」上下で100万部近く売上げ、旺文社刊行のピクチャーブックも4冊本で同様の売れ行きを示す結果となり、一番驚いたのは当のセーガン自身だった。
彼はその後、フランスで放送と連動した同様のメディアミックス展開を試み、成功したと語っていた。
 

コスモスはどんな番組でどう放送されたか

制作 :
メインはアメリカ。カール・セーガン・プロダクションと PBS のロスアンジェルス局 KCET。これに英国 BBC、独国ポリテール・インターナショナル、日本 ABC が協力。日本語版制作は、ABC と東北新社。

プロデューサー :
元英国 BBC のアドリアン・マローン(Adrian Malone)。「人類の上昇」(Ascent of Man)、「不確実性の時代」(Age of Uncertainty and Civilization)など話題のドキュメンタリーを制作している。

ホスト兼ナレーター :
コーネル大学教授のカール・セーガン(Carl Sagan)。

総制作費 :
800 万ドル(約 20 億円)を各国で分担。企画から三年がかりだったと。日本は制作スタート後の参加で、平家ガニのロケーションなど制作協力した。

放送 :
アメリカ PBS ネットワーク 280局。1980年09月28日~12月21日まで 13 週間、毎週日曜日午後20時から。第一回ニューヨークでは、15 % の高視聴率だった。

日本 テレビ朝日系列9局の放送 -- 朝日放送、北海道テレビ、東日本放送、テレビ朝日、静岡けんみんテレビ、名古屋テレビ、広島ホームテレビ、瀬戸内海放送、九州朝日放送。1980年11月03日(月)~07日(金)は午後22時から各二時間(但し、05日(水)は米大統領選特番で休み)、11月08日(土)~12日(水)は午後11時から各一時間、11月13日(木)は報道スペシャルで午後07時~09時「ボイジャー1号土星大接近」米パサデナ NASA 衛星生中継。

視聴データ -- 第一話「150 億光年への出発」を見た手塚治虫氏の感想を当時の「週刊 TV ガイド」誌から以下に転載する。
 

COSMOS 第一話を見て - 手塚治虫

開巻、ブラウン管いっぱいに打ち寄せる高波から、吹き抜けるような空と大海原、そしてはるかみさきに立つ豆粒のような、この作品の解説者カール・セーガンが、みるみるトラックアップしてくる。

地球の表面は宇宙という“海”の“ナギサ”です。私たちはここでたくさんのことを学びました。でもまだ、ほんの少し水に入った程度、せいぜい、クルブシまでです。私たちは本能的に、自分がこの“海”から来て、再び戻っていくことを知っています。私たちは宇宙の一部ですが、逆に宇宙も私たちの中に存在するからです……。という印象深いセリフから始まるこの膨大なドキュメント・ファンタジー(という肩書きが、一番ピッタリしているようだ)は、第一話から、小さなテレビ画面にたちまち度肝を抜くような場面を展開していく。

それはまず、解説者カール・セーガンがつまみあげたタンポポの毛(種)が、ふわりと空中に浮かび上がり、それがそのままの形で宇宙船に変わって、なんと一気に宇宙の果て、八十億光年のかなたへワープ(瞬間移動)してしまう発端。“宇宙の果て”、こんなものを今までテレビで紹介した番組があっただろうか?

あっけにとられるいとまもなく、タンポポ宇宙船はカラメらとともにぐんぐん星雲の群れの中へ突っ込んでいく。いくつかの宇宙(その中にはアンドロメダ渦状星雲もあった)を飛びこし、銀河系星雲の中へ飛び込み、クエーサーと呼ばれる光の脈を打つ天体、爆発した超新星、暗黒星雲、そして名もないある惑星の表面などが飛びすぎていく。このあたりになると、おそらく SF 好きや子供たちは胸をときめかせ、熱狂して見入るだろう。その映像の詩的な美しさに打たれて、うっとりと陶酔するする人もいよう。さらにまた一部では、いま映っている映像が、科学の最新情報による宇宙の姿だということに気がつく人たちもあるだろう。「コスモス」は、こういった新しい驚きと深い感動に満ちた、SF 以上に雄大な叙事詩なのだ。

宇宙船はついに太陽系の一番はしに到着する。冥王星がたった一つの月“カロン”(二年前に発見されたばかりだ)を従えて通り過ぎる。かすかな環をつけて回っている(これも新しい事実だ)土星の環のふち、木星の大赤点の上空、そして火星の地上すれすれのところを、私たちはカメラの目といっしょに矢のように横切る。その特殊撮影の見事さ。映画「スター・ウォーズ」や「スター・トレック」で若い人たちをあっと言わせた空想シーンの、あのスケールとダイナミズムと同じものが、この番組ではふんだんに味わえる。このように各シーンごとに説明していってはきりがないくらい、どの部分の物語もその内容と技術がすばらしさの連続なのだ。

ついでに話してしまおう。第一話のラストでこれもおそらくテレビでは初めて、私たちは宇宙の創生、つまり宇宙が生まれたときの様子を目のあたりに見ることになる。これは、原子ができた瞬間と同じで“ビッグ・バン”と呼ばれている。

それから人間が誕生して現在の文明になるまでの歴史の時間を、この番組は、宇宙カレンダーにたとえて見せてくれる。もし“ビッグ・バン”の日を01月01日とすると、人間の文明が生まれたのは、12月31日の、午後11時46分だったことになるそうだ。そのはかない人類の歴史の短さを、よくわかるように解き明かしてくれる。

「コスモス」は、ふつうなら NHK 教育テレビとか、あるいは朝早くか深夜、ほとんど一般の目に触れないような地味な宇宙物語を、一気に夜10時(米国では夜08時)にバーンと放送するだけの値打ちのある最高に面白い、そうとしかいいようのない、マジメな番組だ。ニューヨークでは、CBS(商業放送)の視聴率をけおとしてしまったという。それはたとえ教養番組だとて、最高のアイデアでたっぷり制作費をかけて作ればどんな娯楽番組もまかすことができるという証拠なのだ。私たちは、教育番組、解説番組というと、ひとつの先入観をもってしまっているのだ。“かたくるしい、つまらない、地味で退屈千万”そういった従来の評価を、ひっくり返してしまったのが「コスモス」だ。私は、「火の鳥」というマンガで宇宙の果てから果てまでを SF 的に描いてみたが、この番組には「やられた!」と完全に降参してしまった。

それは事実がもつ限りない重さに打たれたからである。それと同時に、人間という宇宙の塵にも等しい生きものが、なぜ生き、そして、どんなに愚かで、しかもすばらしい存在であるかをしみじみと考えさせられる点で、打ちのめされたからである。
 

「コスモス」企画との出会いについてふり返ると ...

1979年03月12日、国際コミュニケーションズ(ICI)代表北岡靖男氏を介して、ドイツのポリテール・インターナショナル、ゲアハルト氏(Dr.Gerhard)が持ち込まれた。最初のタイトルは「Man And The Cosmos」だった。

当時朝日放送は、翌80年03月の「数え30才」から始まり「満30才」までの一年間にわたる「創立30周年記念」の目玉になるいくつかの番組企画を検討中だった。(ワイドドラマ・井上靖「額田女王」岩下志麻主演、4時間2夜放送、唐招提寺鑑真和上の中国里帰り事業企画と放送「1200年目の回廊」松竹新喜劇、藤山寛美による「桂春団治」公演主催と放送)

ここに、格調高い知的エンターテインメントとして、科学ドキュメンタリー・シリーズが加わることは、大阪の民放局だけにかなり異色な試みになると思われた。

世間一般でも、金星・火星の探査から月面着陸と、宇宙への具体的な関心がもたれるようになり、書店には宇宙もの SF ものがふえ、クリスマスや正月プレゼントに望遠鏡人気が出ており、07月09日にボイジャー2号木星接近、09月03日にパイオニア11号土星接近と、さらに宇宙が身近になる話題もあった。宇宙と人間との関わりをふまえ、ロマンと最近技術を駆使した知的映像の組み合わせが実現すれば、民放でも十分注目されるものになる、と判断できた。

そこで、カール・セーガン・プロのマネージャーで、JPL/NASA(ジェット推進研究所)の主任研究員でもあったジェントリ―・リー氏を招き、日本で取材協力する共同制作者の立場からも、内容的な注文を行った。

アメリカは、公共放送の性格が強い PBS ネットワークだが、日本では民放での放送であり、より幅広い視聴者の関心を呼び起こせる内容にしていきたいという前提で話し合い、この時以降も3回にわたって担当者を渡米させ、内容面にふみこんでいった。

メディアミックスとしての新聞、雑誌、出版や催事展開にも、強い意欲を持ってのぞんだ。まずセーガン執筆中の「コスモス」の完成を確実にし、放送前に日本でも翻訳出版したい。番組制作のメイキング、使用された道具やセットなどを利用したピクチャーブックの刊行や催しをやりたい。セーガンを迎えて、事前の記者会見、シンポジウム、特に子供たち相手のイベントを行いたい、など要請し、具体的スケジュールの調整を行った。

これらが、ほぼ実現できる見通しが得られて、正式に企画の採用を決定するが、その頃日本の放送は1980年の夏休みベルト編成を想定していた。
 

何事によらず、順調に進むとは限らない

まずスケジュールが遅れてきた。世界20カ国40数ヶ所にわたるロケ・スケジュールが遅れ、マジカムやコズミック・ズーム、コンピュータ・アニメなど特殊撮影部分が延び、完成後のデリバリー日程はもちろん、事前プロモーション用宣伝素材の肝心なところが揃えられず、ハラ芸的な計画進行をよぎなくされた。

やがて年が変わり、PBS の放送が09月28日からとなり、ようやくデッドラインの目途が見えてくる。ドイツの放送は吹替えの都合などから81年春になり、参考にはならなかった。

番組タイトルも「COSMOS」に変更。理由は何故 “ MAN ” なのか?の反論がウーマンサイドから起こり、シナリオ執筆者の一人アン・ドルーヤン(後のセーガン夫人)の反論が強く、変更になった、と。しかし精神はあくまで「人類と宇宙」であることが強調された。

「コスモス」全編のテーマ音楽は最終的に VANGELIS の “ Heaven and hell ” と決まるが、これもパブリシティ段階では間に合わず、ツトム山下氏に作曲してもらい、事前の PR スポットに使用したことがあった。

原書の刊行も、オリジナル原稿の完成が遅れており、やがてランダムハウス社から刊行は10月中旬と決まってくる。
 

すべて、11月放送に向かって結集していった

1979年の07月09日ボイジャー2号、09月03日パイオニア11号が話題になり、木星および土星接近とともに、送られてくる映像が連夜新聞各紙の特に夕刊のトップに報じられ、さらにテレビニュースも各時間で報じている現況を見て、そうだ!80年11月、ボイジャー1号土星大接近の日を軸にして「コスモス」を編成し、それに向って各メディアの展開を行えば、土星大接近を報じる新聞各紙やテレビニュースの展開が応援役を果たしてくれることになるだろうと思いついた。

当初は、若年層を対象に、夏休みの放送を考えていたが、11月なら視聴者の幅を広くした展開になるし、何よりもスケジュールの遅れへの対応も可能、営業的にも08月の閑散期が避けられるメリットもあると、すべての計画を切換えていった。しかし……

問題は、東京局のテレビ朝日が了解してくれるかどうかだった。この企画を内定した時点で相談しかけてはいたが、具体的には年が変わってからだった。(1)果して、「レーティングが取れる番組になるのかどうか」具体的な判断材料が少ない。(2)13本連続放映ということで、プライムタイムのレギュラーを2週間にわたって休むということは、11月という時期だけに避けてほしい。(3)11月05日は、米大統領選挙があって特番編成がある。大相撲九州場所もある。といった問題かあったが、かなり積極的に取り組んでもらい、次のように話合った。

テレビとはナマのものである。11月13日のボイジャー1号土星大接近という特報級の事件に向って、刻一刻動くナマのニュースの流れに、大統領選あり、大相撲あり、土星の環が日に日に大きくなってくる、その宇宙を解説する番組もある、ということで編成する。一般家庭では、11月03日の祭日に家族で見て、親は子供の感想をきき、子供は親の解説をうけ、翌日会社や学校で話題になり、その翌日の視聴につながり、最後は土星大接近のパサデナ JPL からの衛星生中継をどの局よりも早く報道して締めくくるという編成になっていった。

内容・編成の見通しがついてくると共に、営業的には電通東京の協力を得て、IBM が 1/2、ソニーとホンダが各 1/4 の提供スポンサーが決まっていった。
 

出版については

朝日新聞社に、幸いにもカール・セーガンに関心のある木村繁氏が科学部長でおられ、セーガンが日本では十分知られていないことから、本の出版とドッキングしたシリーズ記事の掲載も考えてみるべきだろうと、話していただいていた。

しかし、それには社内関係各所の調整が必要で、まだ本の内容について材料不足であることや、セーガンがジャーナリスティックすぎるとの批判的反論もあり、一気には進まなかった。やがて、担当専務、常務まで了解を得て、塚崎定一事業開発担当役員のもと、あらゆるメディアミックス展開を考えて見るから具体案を出してみてほしいと協力体制が作られた時点で、朝日新聞のバックアップは強力な推進力となっていった。

まず出版は、木村繁訳で「コスモス」上下巻を10月28日発行、その抄訳が、本誌第4面に連日「COSMOS」のロゴがついたコラムで09月02日から、なんと36回と番外特集まで連載され、この機会に、これまでカール・サガンとかカール・セイガンと表記されていたのを、本人とも相談されて、カール・セーガンと統一されるということがあった。
 

この頃、翻訳されていたカール・セーガンの本といえば、
・「異性人との知的交信」
金子務訳 河出書房新社 1976年刊
Communications with Extraterrestrial Intelligence. 1973

・「宇宙との連帯」 - 異星人的文明論
福島正実訳 河出書房新社 1976年
The Cosmic Connection : On Extraterrestrial Perspective. 1973

・「エデンの恐竜」 - 知能の源流をたずねて
長野敬訳 秀潤社 1978刊
The Dragons of Eden : Speculations on the Evolution of Human
Intelligence, 1977
(1977年度ノンフィクション部門ピューリッツア賞受賞)

ピクチャーブックについてはこれも幸いに、旺文社が新しい科学雑誌発刊の計画があり、その先導役に格好の企画としてとりあげられた。ただ、計画に至る出足が遅かったことから、事前準備が不足で、番組制作中の記録写真の集まりが難しく、当初13冊の計画が4冊本となる。

しかし、NASA の当時としては珍しい写真などを収録した見事な「COSMOS / 宇宙」に仕上がり、第一巻が10月30日刊、以下毎月刊行となった。
「COSMOS / 宇宙」
カール・セーガン構成、小尾信弥監修
1.地球と銀河を結ぶ8億光年の旅
2.宇宙にただよう惑星と彗星
3.人類と宇宙のかかわりあい
4.果てしない宇宙へ向って

山本英夫書籍担当役員以下の工夫と努力により、放送と連動して、旺文社刊行の各学年雑誌(小学6年、中学1年、2年、高校1年、2年)に積極的なパブリシティを展開されピクチャーブックも10刷を越える売れ行きになっていった。
 

カール・セーガン来日

09月07日(日)
アン・ドルーヤン(An Druyan)と共に初来日。両人は、カールの前妻リンダ(Linda)との離婚が成立した翌月、81年06月に結婚される。セーガン三人目の夫人だった。

09月08日(月)
記者会見、「コスモス」のハイライト版の試写など。午後03時~06時

09月09日(火)
「コスモス・シンポジウム―宇宙と人類―」午後01時~06時 朝日講堂
カール・セーガン、小尾信弥(東大教授天文学)
町田晴彦(東大教授生物化学)、犬養智子(評論家)
小松左京(作家)
司会:木村繁
第一部・宇宙空間に知的生命はいるか
第二部・地球と人間に未来はあるか

09月10日(水)
「ヤング宇宙セミナー」
午後4時~6時 サンシャイン・プラネタリウム
カール・セーガン、アン・ドルーヤン(作家)
ジェントリ―・リー (NASA)
司会:中川アナウンサー(テレビ朝日)

09月11日(木)
京都へ。俵屋宿泊。セーガンの気に入り、以後彼らの定宿となる。

09月12日(金)
大阪へ。国立民族学博物館、梅棹忠夫氏と会談。2時から関西放送記者会と万博記念公園迎賓館で懇話会。
(カール・セーガン、梅棹忠夫、小松左京)

09月13日(土)
京都、大徳寺竜光院で小堀南嶺師と懇談。
師の“紫野文苑”に外国人メンバーとなり、「星願」の書が贈られた。
 

その他の催事

コスモス展
10/31(金)~11/05(金)
池袋西武百貨店8階
コンピューター・VTR により事前キャンペーン

ソニースクエア展
11/03(月)~11/05(水)
数寄屋橋ソニースクエア
ハンマーゴングによるボイジャー土星到着ゲームなど

催事関係から雑誌取材、新聞広告など、ほぼ東京に重点をおいた。限られた予算の運用という前提はあるものの、大阪の朝日放送に比べて、当時のテレビ朝日のステーションイメージが低かったこともあって、大阪の記者を東京に同行して取材してもらってでも、東京でのパブリシティに力を入れた。

こうした我々の努力と並行して行なわれた、前述の朝日新聞なり旺文社なりの、それぞれの出版物についての独自の宣伝努力が、結果として相乗作用を興し、いわゆる「メディアミックス」による、それぞれの力を超えた倍数的な効果を上げる結果となったのだった。
 

アドリアン・マローン来日

「コスモス」放送にあたって、当初から大きな問題だったことは、アメリカは PBS での放送のため、一時間枠といえば内容58分、しかし日本の民放での一時間枠は54分枠、さらに CM 設定があるため内容を10分以上短くする必要があった。これには制作責任者のマローン氏の了解が必須であり、その立会い下で編集するしか方法はないということだった。

アメリカでの本編制作のすべてを10月01日に終えるや、夫妻で10月06日に初来日してもらい、翌07日から17日まで編集作業に従事してもらった。

彼から見れば、日本の「要求」は、文豪シェイクスピアに向って貴方のドラマの一割以上をカットしてくれと頼むくらい無謀なことだと、大ムクレだった。が、日本側の番組に期待する姿勢を了解されるにつれて、アメリカでカットしていた映像も交えて本腰入れて再編集する力の入れようとなった。そして、日本の NHK のドキュメンタりーは叙情的すぎる、映像に事実を語らせることが重要だと説き、その点、カール・セーガンとも随分やりあったと批判的だった。実のところ、「コスモス」完成につれて二人の仲はむしろ険悪さを増し、二人の来日が重ならないように配慮したということもあった。

横内正さんによる日本語版制作の合間をぬって、新聞雑誌のインタビューに応じるほか、京都や奈良東大寺落慶法要などを見学し、将来「ヤマト」と題するドキュメンタリーを制作したいと、意欲的な人だった。
 

スタッフ紹介

こうして、カール・セーガンは、1980年が終わる頃には、知らない方がオクレテル、社会現象の一つになったのだった。

ここで、それぞれの時点・分野で、この人がおられなかったらこうは進んでこられなかったといえるキーパースンの方々を紹介しておきたい。
 

北岡靖男氏:国際コミュニケーションズ(ICI)代表

はじめにこの企画を持ち込んでもらった方だが、17年間にわたってタイム・ライフ社の日本代表だったことから、国際的に交友関係が広く、この頃の海外情報でのボスだった。朝日新聞社の TOEIC(Test of English International Communications)の創設者でもある。

この企画が進みはじめると共に、ドイツ・ポリテール・インターナショナル社からの持込みだったため、この社との契約になり、しかし細かくはセーガン・プロと直接行うという調整をやっていただき、さらに、朝日新聞社や旺文社との別途ルートからの折衝や、電通とのコミュニケーションなど、早い機会に、的確なルートを敷くお手伝いを随分やっていただいた。そうして丁度基本的なレール敷きがほぼ終わったかなという80年03月に、検査で食道癌とわかり、入院手術されるが、最終結果を最も喜んでいただいた方の一人だった。

その後、入退院をくり返し、手術を8回もされたと聞いたが、97年02月10日69才で他界された。この人に説得されてヘビースモーカーだった私が、禁煙したことを思い出す。
 

秋田次平氏:朝日放送情報企画局次長

京都大学から第一回ガリオア留学生(1950年)として3年間、カリフォルニア大学バークレー校、イリノイ大学、アリゾナ大学に留学されていたこともあって、カール・セーガンも感福する英語力の持主。さらに朝日放送からホテルプラザの建設とその運営に10年間出向されていた間の人脈は幅広く、この頃朝日放送に帰り、情報企画局次長として「創立30周年記念」事業の推進幹事役だった。

結果は、ほとんどカール・セーガン、ジェントリー・リー、アン・ドルーヤンにかかりきりで、京都、奈良、大阪にも同行、ことにセーガンの信頼は厚く、このあとの企画からセーガンの死に至るまで、“ Carl ” “ Jihei-san ” の交友がつづき、セーガンの強い遺志もあって、98年12月に NPO 法が施工されると共に、NPO 法人「日本惑星協会」の設立発起人となり、設立後は専務理事になられた経緯がある。

双方とも初めての出会いによる仕事であり、日米の習慣から言葉の問題、仕事の分野の違いなどを越えて、ほとんど完全なコミュニケーションを行いながら進行できたのは、まったく “ jihei-san " のおかげだった。
 

小谷正一氏:デスク K 代表

われわれ(秋田次平氏と高岸敏雄)が大阪初の民放テレビ局だった OTV・大阪テレビ放送(開局3年後に朝日放送と合併する)に入社したとき(昭和31年)のボスで、毎日新聞社を経て新大阪新聞社の創設、新日本放送(ラジオ)を開局され、その時代のエピソードから井上靖の小説「闘斗」や「黒い蝶」が生れ、OTV の後は電通東京、独立されてデスクKと、いわゆる「プロデューサー」第1号の称号が捧げられる業績を重ねられた方だった。

その方に、79年の夏頃、朝日新聞の対応もにぶくて、機敏な集英社か文春を紹介してもらうべく、またカール・セーガンについても自信が持てなかったこともあり、相談に訪ねた事があった。

「宇宙という相手だけに、信頼性が大事だ。君のいう眠れる獅子でも朝日新聞の力は大きいよ。活用するべきだ。“ 朝日が ” の展開が、スケールを広げる。」とまず教えられ、「カール・セーガンは新しい童話作家だな。月へ人間が行ったその時から、漫画家たちは夢を失ってしまった。科学が人間の夢の先を行くようになってしまったんだ。人間は科学の先にある夢を探し、それを取り戻さないといけなくなってる。

文科系からは現代のロマンは出てこないだろう。サイエンスをふまえ、それを越えたところに現代の新しいロマンと夢があり、理科系から本もののロマンチストが出現するのではないだろうか。丹下健三とか糸川英夫とか……。エジソン、ディズニ―、そしてセーガンと、アメリカに夢を運んだ三人の天才のように ...」

こういう人こそ、慧眼というのだろう。92年08月08日、80才で永眠された。
 

木村繁氏:朝日新聞社科学部長

朝日新聞にこの方がおられての「コスモス」出版だった。1932年熊本生まれ、東大教養学部から朝日新聞社、東京本社科学部長から調査研究室主任研究員になられたときに「コスモス」の翻訳にあたられた。

オリジナル原稿の完成が延び、おそらく全部入手されたのが06月頃で、10月に出版ということだから大変な作業、御夫妻での徹夜作業だったときいた。さらに抄訳による本誌連載から、セーガン来日時のシンポジウム司会、最終11月13日放送の生中継番組への出演など、この方もキーパーソンだっだ。

同氏は、翌81年07月にイラスト版「COSMOS」写真集を構成出版までされている。残念ながら87年11月に他界された。

朝日新聞社は、この後もカール・セーガンの著作を刊行されている。
 

アン・ドルーヤンとの共著

「はるかな記憶」上下巻、人間に刻まれた進化の歩み―
訳・柏原精一、佐々木敏裕、三浦賢
朝日新聞社 1994年刊、1997年に朝日文庫
Shadows of Forgotten Ancestors, 1993

「惑星へ」上下巻
監訳・森暁雄
朝日新聞 1996年刊、1998年に朝日文庫
Pale Blue Dot, 1994

その後の日本での翻訳は、

小説「コンタクト」上下巻
訳・池央耿、高見浩
新潮社 1986年刊、1989年に新潮文庫
Contact, 1885

「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」
訳・青木薫
新潮社 1997年
2000年に新潮文庫で改題「人はなぜ エセ科学に騙されるのか」
The Demon-Haunted World Science as a candle in the Dark, 1995
 

ジェントリ―・リー氏(Gentry Lee)

当時38才、JPL/NASA(ジェット推進研究所)の主任研究員で、これまでの宇宙無人探査計画に中枢スタッフとして参画。「コスモス」企画に賛同してカール・セーガン・プロのマネージャーとなった人。南北戦争の南軍リー将軍から六代目の子孫にあたり、テキサスから MIT 出身、頭の回転の早いネアカのヤンキー青年で、われわれにも納得できる番組内容作りに大いに力になってくれた。

彼は「コスモス」に次ぐ企画「ニュークリアス」でも実に身近な仲介役を果たしてくれたが、その後は SF 作家に転じ、アーサー・C・クラークとの共著「Cradle」(星々の揺藍)1988年刊でデビューし、「RAMA II」(宇宙のランデブー)三部作(1989、1991、1993年刊)を刊行している。

邦訳はそれぞれ早川書店から出版され、文庫にもなっている。
 

朝日放送スタッフ

朝日放送としては、こうした社外制作による持ち込み番組を検証、編成する窓口は「テレビ編成局」が行い、今回は局次長だった高岸敏雄が総合プロデューサーを担当し、単なる「検証」では済まない実に手の込んだ番組にしてしまったのだった。

スタッフとして、編成部の企画課長村沢禎彦が契約から制作関係を担当し、番組宣伝部の飯田裕部長と中畑俊二が宣伝、催事を担当、東京支社テレビ編成部岡村黎明次長と阿藤開作課長が東京での連絡、東京テレビ営業部の武川伯、泉英毅が電通東京、スポンサー関係を担当した。
 

反響

放送後の視聴者からは、「熱中型」「激励型」「再放送希望型」の声が寄せられ、在日外国人から深夜でもいいから英語版の放送希望もあった。新聞・雑誌での批評も多くとりあげられたが、おおよそは―――

教養番組の枠を越えて……テレビの知的な表現の可能性をさらに拡大してみせた。

ノーネクタイ姿の気さくなセーガン氏の個性が……総じて予想以上の平易さで、宇宙と人間の関わりを解きあかした。

全シリーズを通して、セーガン氏は150億年という宇宙の歴史の中での人類生存の“重み”を熱っぽく語った。そして、正気のさたとも思えぬ大国の軍拡の現状に心を痛め、人類を滅亡させる核戦争の危機を説いた。宇宙的視野で人類を見たとき、地球上の「戦争」が、いかに無意味であるかも訴えた。

地球はかけがえのないものであり、そして人類が滅亡の危機を乗り越えて生き残ることは、宇宙への義務でもある、と結んだ。セーガン氏は、科学ドキュメンタリーをつくったというより、この番組で“人間賛歌”をうたい上げたのである。ここに、多くの視聴者の共感があったと思えるのである。
 

11月08日の朝日新聞、天声人語は次のように書いた。

カール・セーガン博士の「COSMOS」(木村繁訳)を読んだ。同じ題のテレビの科学番組も見つづけている。なかなかの力作だが、とくに感心したことが三つあった。

第一に、わかりやすい。第二に、比喩(ひゆ)がうまい。第三に、強烈な人類愛にささえられている。三点を通じていえるのは、複雑な宇宙のドラマを基礎知識のない人にもわかってもらおうという異常な熱意がみなぎっていることだ。

たとえば宇宙カレンダーの比喩がある。宇宙の始まりを一月一日とすると、私たちの銀河系ができはじめたのは03月初旬、地球と月とできたのは09月中旬、地球上に最初の魚が登場したのは09月19日。

そして最初の人間が登場したのは12月31日の午後10時半、ということになるのだそうだ。この宇宙カレンダーを一目みれば、二百億年といわれる宇宙の時の流れの中で、人類の歴史はほんの一瞬にすぎないことがすぐにわかる。

その「ほんの一瞬」の歴史しかもたぬ人類がいま「相互不信の催眠術にかかり、人類全体のことや地球のことはほとんど考えず、国家は死のための準備にやっきとなっている」と博士は嘆く。その底には、科学は特権階級や学者だけのものであってはならない。大衆のもの、人類のものでなけばならぬという信念があるのだろう。

人類はかつて、古代アレキサンドリアに輝かしい科学文明の花を咲かせたことがある。古代のもっともすぐれた頭脳がアレキサンドリア図書館に集まった。古代世界の名著もそろっていた。

その栄光の図書館がやがて破滅する。最後の学者となった美女ヒパチヤが暴徒に惨殺されるのである。文化の粋があとかたもなく破滅したのは、科学が特権階級だけのものだったから、というのが博士の解釈だ。学者たちは星の研究はしたが、奴隷制度の是非を論ずることはしなかった。

核兵器を生んだ現代の科学技術がもし特権的な、少数の人たちだけのものであれば、人類はアレキサンドリアの悲劇を繰り返す。(以上)
 

翌年01月、1980年度の第13回テレビ大賞選考で、NHK の「シルクロード」が大賞に選ばれ、その受賞理由に「壮大なスケールとロマンあふれる音と映像づくりが」とあった。それに対して、「同じ理由で〈コスモス〉だって負けないだけの番組だったし、画期的ということでは〈コスモス〉のインパクトの強さのほうが上ではなかったか」の反論が目についた。
 

結び

やがて「コスモス」は世界各地で放送され、全世界60カ国延べ20億人に見られたという。例えばサウジアラビア、イスラエル、スリランカ、ガーナ、南アフリカ、アルゼンチン、韓国、東ヨーロッパのほとんどの国、西ヨーロッパのすべての国、ラテン・アメリカのいくつかの国、やがてソ連や中国でも。そうした成果がセーガンの構想を刺激して、次の企画へと結集し、やがてカール・セーガン・プロと朝日放送の共同制作提案となってくる。
 

編集にあたって

高岸元専務理事とは、直接または電話等の間接的な取材(懇談)が、すでに二桁回に及んでおります。お忙しいなか、怪訝さを微塵も見せずに井本の相手をしてくださいました。今後もお願いできればと願っております。
記しましたとおり、関西での TV 文化黎明期からその第一線で活躍された方であり、語られるお話も井本自身が経験した現実を遥かに凌駕しており、総てが未知のもので新鮮でした。

御年齢を考えると、今はただただ、「ご健勝であられますように」との気持ちでいっぱいです。

March 31, 2015
日本惑星協会代表理事 - 井本昭