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遊星人の海外研究記 その 9 : February 02, 2023 Published
原文 - 日本惑星科学会誌「遊・星・人」第31巻(2022)4号 - PDF
藤谷渉
マックス・プランク化学研究所
この遊星人記事は、日本惑星科学会遊星人編集専門委員会より許可を得て掲載しております。
1. はじめに
いま考えると多くのご縁や幸運があり,渡独することになったのだと思う.私は博士二年のときに二ヶ月,博士号取得後ポスドクとして三年,ドイツ西部の街マインツのマックス・プランク化学研究所(Max-Planck-Institut für Chemie: MPIC)に滞在し,受け入れ研究者の Peter Hoppe のもとで研究をする機会を得た.私の研究内容は修士のころから一貫して,二次イオン質量分析計(SIMS)による隕石の同位体分析である.まず,マインツに滞在することになった経緯からお話ししよう.
私が東大大学院の博士一年だった2009年06月,東工大-東大を拠点とするグローバル COE プログラム「地球から地球たちへ」が採択され,そこでリサーチアシスタント(RA)として博士課程の学生が何人か雇用された.私もその一人である.その G-COE では,海外の研究機関にインターンシップとして訪問し,二ヶ月ほど研究できる機会を RA に提供していた.海外のラボで武者修行をしてみたいと強く思っていた私はすぐに応募し,そして採択された(後述するように,SIMS はラボごとに独自のノウハウがある).
訪問先より前にやりたい研究テーマが決まっていた.話は前後するが,私の修士課程での研究テーマは,隕石中のクロムの同位体異常を担うキャリア(つまり,プレソーラー粒子)を Nano SIMS で探索する,というものだった.今でこそ隕石中の様々な元素の同位体比に carbonaceous chondrite(CC)と non carbonaceous chondrite(NC)の二分性が確認され,特にクロム -54 の同位体異常はよく知られているが,当時はまだそれほど研究が進展していなかった.結局,修士課程の研究ではそのキャリアの特定には至らなかったのだが,修士課程修了の直後くらいに,恒星内の核合成に関する理論・実験・分析の分野横断型の研究会が国立天文台で開かれ,私は自分の研究成果について話した.ちょうどその研究会で,天文台の梶野さんが,超新星爆発におけるリチウム・ホウ素の核合成からニュートリノ振動を解明する,という内容の講演をしておられた.さらに,梶野さんは超新星起源のプレソーラー SiC 粒子(SiC X grain)が使えるかもしれない,と述べておられ,私はそれに強く興味を惹かれた.その直後に梶野さんに話しかけ,梶野さんも私の話に興味を示してくださっていたので,是非一緒に研究しましょう,ということになった.
しかし,隕石中のプレソーラー SiC 粒子(典型的には μm サイズ)は「干し草の中の針」に例えられ,ほとんどすべての干し草: ケイ酸塩鉱物を強い酸で処理してようやく SiC が単離できる.甘利さんによる(酸に溶けない)プレソーラー粒子単離の「レシピ」は有名だが,化学実験に不慣れな人にはなかなか難しい(私だけかもしれないが).そのため,自力で SiC を単離するのを諦め,すでに単離された純粋なプレソーラー SiC 粒子を研究に使いたいと思うようになった.そして,2009年夏の隕石学会@ナンシーでプレソーラー粒子研究の大家である Hoppe に相談することにした.そこでマインツ行きを考え始めたのだが,それには少しわけがある.まず,東北大の中嶋大輔さんが MPIC の Ulrich Ott(専門は希ガス分析)のもとでポスドクをした経験があり,情報を得ることができたこと,そして,私事だが,妻(当時はまだ結婚前)がドイツ文学を研究していること,である.結局,中嶋さんに仲介してもらって,MPIC で SiC X grain のリチウム・ホウ素同位体分析をやりたい旨を Hoppe に伝え,分析装置(Nano SIMS)にマシンチャージが発生しないことやマシンタイムの状況などを確認し,これなら行けそうだ,ということになった.
2. 博士課程在学時のマインツ滞在
前置きが長くなったが,いろいろなご縁に恵まれてマインツに二ヶ月滞在することになった.渡独は2010年の03月下旬だった.ライン川とマイン川の合流点に位置するマインツは,フランクフルト国際空港からのアクセスに至便であり,S-Bahn(近距離鉄道)に乗って 30 分もかからない.ローマ帝国の遺跡が残り,10 世紀末から 11 世紀はじめに建設された Dom(大聖堂)のある美しい街だ.大きな荷物を引きずって MPIC に着き,まず Hoppe と会うと,すぐに寝泊まりをするゲストハウスに案内された.ゲストハウスは最大三人まで滞在することができ,はじめは一人で贅沢に空間を使っていたが,やがて Ott のポスドクの Julia Cartwright が来て賑やかになった.MPIC 内に与えられたオフィスは Hoppe のポスドクの女性と共有だった.私が最初にその部屋に入ったとき彼女は不在だったが,床にベビーベッドが置かれていて驚いた.彼女が出勤するときはだいたい赤ちゃんを連れてきており,育児に対する社会の考え方が随分違うと思った.
この二ヶ月の滞在で二週間分の Nano SIMS のマシンタイムをいただいた.まず,最初の一週間で,あらかじめ単離されたプレソーラー SiC 粒子から炭素とケイ素の同位体比に基づいて X grain を探し,次の一週間で,発見した X grain のリチウム・ホウ素の同位体比を測定した.ここで印象的だったのが,SiC を Nano SIMS の同位体イメージングで分析する手順が完全に自動化されており,一週間で 1,000 個の粒子を測定できる仕組みになっていた(X grain は全プレソーラー SiC 粒子の 1 % 程度であるため, 10 個程度の X grain を発見できる)ことと,技術職員のサポート体制が非常に充実していることだった.
この滞在で私が気を付けていたのは,とにかく Hoppe とコミュニケーションを十分に取ってたくさん話すこと,であった.Hoppe は私の拙い英語にも根気よく付き合ってくれて,普段はとても温和だった.得られたデータはマシンタイム以外の残りの時間で解析し,Hoppe と議論を重ねた.データ解析では,同位体イメージの膨大な量のデータから本質的なことを抽出する Hoppe の手腕に驚いた.
3. ポスドク時代
私は博士三年のときに学振 DC2 に採用された.博士号を取得したときに DC の採用期間が残っている場合は自動的に学振 PD に資格変更されるため,就活に悩まず,心にゆとりを持って博士論文の執筆に取り組むことができた.そして,二ヶ月のマインツ滞在が心地よかったので,もう少しこの地で研究してみたいと思い,Hoppe と再びコンタクトを取って,学振 PD の一年間はマインツで研究したい旨を伝えた.以前の滞在で少しは信頼できる人物と思っていただけたのだろうか,まったく問題なくポスドクの受け入れは決定した.その後,博士号を無事に取得し,03月に結婚,そのまま妻とともに04月に再び渡独した.
再びマインツに来てまず驚いたことは,MPIC の建物が新しくなっていたことだった(図 1).
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図 1. マックス・プランク化学研究所の建物.
Credit : 遊星人
もともと MPIC は Joha nnes Gutenberg-Universität Mainz(活版印刷の発明で有名な Gutenberg はマインツの出身である)のキャンパス内にあったが,その中で別の場所に移ったのである.現在の住所は Hahn-Meitner-Weg 1(通りの名前,Weg は通りという意味).お気づきの方もいると思うが,Otto Hahn と Lise Meitner は原子核分裂を発見した人物であり,ノーベル化学賞を受賞した Hahn は MPIC の前身である Kaiser-Wilhelm-I nstitut für Chemie の所長でもあった.新しい建物は近代的で,オフィスと実験室が近くて快適になった.私が以前に滞在したゲストハウスは取り壊しになっており,MPIC の新しい建物の近くには学生寮らしきものができていた.なお,新しいサッカースタジアムもすぐ近くにできていて,試合の日には多くのサポーターが MPIC 最寄りのバス停を利用していた.ちなみに,ちょうど私がポスドクだった時期に岡崎慎司さんが 1. FSV Mainz 05 でプレーしていて,所員にその話題をよく振られた.多くのドイツ人はサッカーと天気の話題が好きなのである.残念ながら私はあまりサッカーに興味がなく,スタジアムに足を運んだことは一度もなかった.少し後悔しないでもないが,サポーターのマナーが結構悪く,ビール瓶の割れたガラスが試合後には周囲に散乱しており,応援に行くのがちょっと怖かったのも事実だ.
MPIC は 84 あるマックス・プランク研究所の一つであり,それらはマックス・プランク協会(Max-Planck-Gesellschaft)の傘下にある.MPIC の新しい建物から歩いて 2, 3 分のところにはマックス・プランクポリマー研究所(Max-Planck-Institut für Polymerforschung)があり,私の同僚は集束イオンビーム装置(FIB)を使うためによく訪れていた.現在 MPIC には Atmospheric Chemistry, Climate Geochemistry, Multiphase Chemistry, Particle Chemistry の四つの部門のもと,およそ 150 名のスタッフ,100 名のポスドクや学生が在籍している.外国人も多く,ドイツ語を勉強する教室も開かれていた. Cosmochemistry の部門は2005年に閉鎖してしまい,残念ながら宇宙化学分野の研究室はそれ以前よりいくぶん縮小してしまったと言えるだろう.現在の MPIC は「化学」と言っても大気化学の色合いが濃く,Paul Crutzen がオゾンホールの研究でノーベル化学賞を受賞したことに象徴されている.一般人がイメージする「化学」はむしろポリマー研究所のほうが近い.Crutzen は昨年お亡くなりになってしまったが,私がポスドクのときはまだお元気であり,研究所のパーティーなどにも顔を出していた.Hoppe グループは Particle Chemistry に属しており,その名のとおり微小粒子を扱う研究室として,プレソーラー粒子だけでなく,エアロゾルなどの分析も行っている.
今回は長期滞在の予定なので,ゲストハウスではなくアパートに住むことになった.マインツもご多分に漏れず,アパート探しは非常に大変らしい.なぜ「らしい」かというと,以前に二ヶ月滞在したときに知り合った Hoppe のポスドクが私と入れ替わりで異動することになり,彼の紹介で彼が住んでいたアパート(家賃は 600 ユーロ)に入居することができたため,そのあたりの事情を知らないまま新生活が始まったからだ.実際,マンスリーの物件に住んで長い間アパートを探している人もいた.私の物件も私が去ったあとすぐに次の借り手がついた.マインツに着いた日は,まず日本から持ってきたスーツケース五つを駅の近くのホテルへ預け, その後すぐに Hoppe に付き添ってもらってそのアパートで入居の契約をした.そのため,マインツに着いた初日は本当に疲労困憊で,ホテルに帰ると泥のようにベッドで眠ってしまった.
翌朝はゆっくり寝ているつもりだったが,朝,ホテルの電話が鳴って叩き起こされた.電話に出るとなんと Hoppe.なんでも,Hoppe の奥さんが今から IKEA に行くのに付き合ってやるからそこで家具を揃えろ,と.すぐに準備して Hoppe の奥さんの車で IKEA に行き,家具や食器などを一揃い買った.その次の日には,Hoppe の学生だった人のベッドとマットレスをその人のアパートから我が家に運んだ.さらに次の日に Hoppe のオフィスに行ったときには,お前のマシンタイムは来週だから準備せよ,と言われた.そんなこんなで大変だったが,ここでもいろいろな人の協力のおかげでなんとか新生活がスタートしたわけである.
生活のインフラでは何と言ってもインターネットが重要だが,ドイツ語が話せないとこの契約はなかなか大変だと思う.私の場合は妻がドイツ語を話せるのでなんとかなったが,一人では難しいと思った.あと,ドイツ語が話せないと大変だと思った場面は,滞在許可証を取得するため市庁舎に行ったときと,口座を開設するために銀行に行ったときだ.しかし,どちらも MPIC の International Office の職員が付き添ってくれたので全く問題なかった.
ポスドクの期間には,重い炭素同位体(13C)に富むプレソーラー SiC 粒子(AB grain)の研究のほか,件の,隕石からプレソーラー SiC 粒子を抽出するのをやってもらえないか,と Hoppe に頼まれ,MPIC の技官さんに手伝ってもらいながら Murchison 隕石の酸処理を行った.受け取った隕石は 60 g くらいあり,高額だろうなと思いながら隕石をハンマーで割った.その後,塩酸やフッ酸などの薬品を使って処理をするのだが,経験のある技官さんの指導のもと,なるほど,このようにやるのか,と思いながら実験をしていた.ちなみに,これらの薬品を使用する前にはドイツ語で書かれた誓約書にサインさせれられた.薬品の管理や事故が起こったときの対処が書いてあるのだ,と Hoppe に言われたが,何が書いてあるのかさっぱりわからないのでちょっと怖かった.
私のもう一つの研究テーマは,渡独する前に申請書を書いてアクセプトされたイトカワ粒子の公募研究: ホウ素,リチウム,および希ガス同位体比による太陽風および宇宙線照射の研究であった.イトカワ試料の分析では SIMS の技官さんが大変よくサポートしてくれた.が,一方,私が危険な操作をしないか見張っているので,彼が帰宅したのを見計らって,夕方から私の好きなように装置の設定を変更し,分析を続けたこともあった.この技官さんはとてつもない凄腕で,Hoppe も全幅の信頼を寄せており,私が装置の修理やメンテナンスを手伝うようなことはほとんどなかった.
私が MPIC で働き始めて一年後に Ott が定年で退職し,MPIC 内でパーティーが開かれた(図 2).そのため,イトカワ粒子の希ガス分析は他研究機関で行うことになった.ハイデルベルクなども候補だったが,結局,スイスの ETH に行き,Matthias Meier に手伝ってもらって分析することにした.そのとき ETH の Rainer Wieler ら著名な研究者と交流することができ,有意義だった.
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図 2. 定年退職のパーティーでスピーチをする Ott(左から三人目)と Hoppe(同二人目).
Credit : 遊星人
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図 2. Ott へのプレゼント.フランジのついたボトルが粋である.
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その次の年には Wieler も定年退職で,ETH で退職記念研究会とパーティーが開かれた.イトカワ粒子を分析した縁で私も招待され,Hoppe,Ott とともに ETH に行った.パーティーには Wieler の元学生をはじめとしてヨーロッパにいる研究者が数多く来ていた.
Nano SIMS のマシンタイムの決定は Hoppe に委ねられており,二,三ヶ月後のスケジュールまで完全に決まっていた.基本的に一,二ヶ月に一週間のマシンタイムが回ってきた.Hoppe は誰も装置を使っていない状態を極端に嫌っており,常に誰かが装置を触っているようにスケジューリングしていた.また,月に一回グループミーティングがあり,そこで研究の進捗を報告したり,実験装置の状態を確認したり,エクスカーションの相談をしたりしていた.エクスカーションではハイデルベルクやモーゼル川周辺などに出かけたが,皆,歩くのが大好きで,なかなかハードなものであった.グループミーティングには毎回持ち回りで手作りのお菓子を持っていくことになっており,私の番のときには緊張しながら朝早くからアップルパイを焼き,持っていった.
Hoppe グループでは毎週水曜日夕方に定例のセミナーがあり,大抵は外部からゲストを招いてトークをしてもらい,その後に皆で近所のレストランで食事をした.話者で印象に残っているのは前述の Meier のほか,Evelyn Füri,Marco Pignatari などで,大変刺激を受けた.Pignatari は恒星内核合成の専門家で,セミナーに来てくれたのをきっかけに,私がプレソーラー SiC 粒子(AB grain)の研究をしていた際に AGB 星内での中性子捕獲反応の計算をしてもらった.
渡独して一年間は学振 PD だったわけだが,その年の途中で,もう少しポスドクとして滞在させてほしい,と Hoppe にお願いに行った.このときも,たぶん大丈夫だと思う,とだけ言われて,まったく問題なく次の年から MPIC に雇用されたポスドクとなった.お給料の具体的な額は申し上げられないが,二年間で結構お金が貯まった.その二年間は MPIC から旅費のサポートをしてもらって国内外の学会に出かけた.ドイツ国内の学会で印象に残っているのは,ネルトリンゲン(隕石衝突のクレーターにある街)での Paneth Kolloquium である.技官さんや秘書さんの協力もあって,ポスドクの間,何不自由なく研究のみに打ち込ませていただけたのは本当に有難かった(文字通り,これは今ではあり得ないことである).こうした悠々自適な研究生活は,帰国して茨城大学の助教に着任するまで計3年間続いた.
4. マインツでの日常生活
研究以外の時間はなるべく現地の生活を楽しむように心がけた.朝市に出かけて新鮮な,あるいはめずらしい野菜を買ってみたり,コンサートに出かけたり,クリスマスシーズンにはクリスマスマーケット(図 3)に行ってGlühwein(ホットワイン)を飲み,もみの木を買ってクリスマスツリーを飾ったりした.
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図 3. クリスマスマーケットの様子.
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ドイツでは車を運転しなかったので,もみの木を担いでバスで運んで他の乗客から変な顔をされてしまった.その他,印象深かったのはカーニバルである.マインツのカーニバルはケルンやデュッセルドルフなどと並んでドイツ有数の大規模なものであり,Rosenmontag(薔薇の月曜日)には,政治家に対する批判・皮肉をこめた車両や仮装した人々のパレードが町を練り歩き,最高潮になる(図 4).研究所内のイベントもたくさんあった.日本の大学のような一般公開や,夏にはバーベキュー,冬にはクリスマスパーティーがあり,フットサル大会もしょっちゅうやっていた.
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図 4. カーニバルでのパレードの様子.背後には大聖堂.
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ドイツのアパートには基本的にエアコンはなく,夏の暑い日はかなり辛かったが,冬はお湯が中を循環している温水暖房によって室温が快適に保たれていた.マインツのあたりは水が硬く,キッチンにはすぐにカルキが付着するのでクエン酸でしょっちゅう溶かしていた.白い服をそのまま洗濯して干すと灰色がかってくるし,最悪の場合,洗濯機が壊れることもある.なお,洗濯機に入れて水を軟水化する薬品(カルゴン)が広く使われている.
洋服は,一時帰国した際にできる限り日本から持っていくようにしていた.一度,ユニクロの下着などを日本から大量に送ってもらったことがあったが,商業用と思われて税関に引っかかり,かなり高額の税金を支払ったこともあった.送るときは,必ずパッケージから出して梱包することが重要である.
食べ物については,はじめはソーセージとビールでここは天国かと思ったが,二ヶ月を過ぎたころからだんだん辛くなってきた.次第に大学キャンパス内の Mensa(食堂)が地獄に思え(さすがに言い過ぎか,でもあまり美味しくない),日本食が恋しくなってきた.結局,家電量販店でいい加減な炊飯器を購入し,お米を炊いて食べる生活になった.うどんや餃子の皮を粉から作ったこともある(麺棒のかわりにビール瓶を使って!).マインツの旧市街には美味しいレストランがあり,特にステーキハウスとビール醸造所併設ビアレストランによく行っていた.秘書さんがとても親切な人で,よいレストランやカフェをたくさん教えてくれた.日本食では,韓国出身の板前さんがいた寿司屋に足しげく通っていた(残念ながら今は閉店してしまっている).ドイツの食材で絶品なのは春に出回る Spargel(ホワイトアスパラガス)である.これを立てた状態で調理するための縦に長い鍋が売られており,私も購入して今でも大切に保管している.
マインツ以外の都市にも,国内外を問わず,可能な限り旅行していた.ライン川下りは日本から親戚や友人が来るたびに案内しているので,三,四回は行ったと思う.日本でも有名なオクトーバーフェストにも行った.夏と冬には二,三週間の休暇を取る所員がほとんどで,Hoppe や技官さんもどこかに出かけてしまうので,その間はトラブルが起こらないかヒヤヒヤしながら Nano SIMS で分析していた.
一番好きな都市はどこだったか,と聞かれることがたまにあるが,そのときはバーデン=バーデンと答えている.「入浴する」という意味の「baden」が二つ連なった名前のこの都市は,文字通り保養・観光都市であり,温泉に入ったりカジノに行ったりできる.高校・大学とオーケストラをやっていた私にとっては,音楽祭があるのも魅力だ.ベルリン・フィルを聴きに行った際に,コンサートマスターの樫本大進さんをホールの外で偶然お見かけしたので,少しお話しして一緒に写真を撮ってもらったのはちょっとした自慢である.
5. おわりに
寄稿を依頼されたときは短い文章を書くつもりであった.が,それでも長々とマインツでの経験について駄文を書き連ねたのは,日本では得づらい体験をたくさんしたことが私の肥やしになっていると考えているためである.環境をがらりと変えることは研究だけでなく心身の健康にも有意義である.また,何度も述べたように,縁や運も重要である.私はほとんど何の苦労もなく MPIC のポスドクになったので,ポスドク探しをしている方の多くには当てはまらないかもしれない.しかし,それも学生だったころからの下準備があってのことだと思っている.このような私の体験が,これから海外に行って研究してみようと思っている読者の参考になれば幸いである.
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図 1. ライデン大学 ライデン天文台.市街地から自転車で 15 分ぐらいの郊外にあります.
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中世から栄えた歴史の長い街ということで,数百年以上の歴史を持つ建物や大きな風車に加え,多数の運河が張り巡らされているなど,オランダらしい街並みを楽しむ事ができます.私が住んでいた家の目の前にも運河があり,時折住民の皆さんのボートが走っていました.一方で郊外には農地や牧草地が広がっていて,空港までのわずかな距離の電車内からも牛や羊,馬の放牧をあちこちで見ることができました.近くにはチューリップで有名な世界最大の花の公園・キューケンホフ公園もあり,春はとても綺麗です.また江戸時代に日本を訪れたシーボルトが住んでいた家が現存し,シーボルトが集めた日本コレクションを展示する日本博物館になっているほか,年に一回街をあげて日本祭が開催され,さらに街の中心部にあるライデン大学の本部の敷地内にシーボルトを記念して作られた日本庭園があるなど,日本との結びつきを街のあちこちで感じることができます.
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図 2. ライデン市内中心部の風景.風車や運河のほか,日本庭園もあります.また,街の所々に世界中の有名な詩などが飾られていて,菅原道真や松尾芭蕉のものもありました.
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図 3. キューケンホフ公園のチューリップ畑.
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また,オランダはレンブラント(ライデン出身.生誕の地が公園になっています)やフェルメール,ゴッホら著名な芸術家たちの出身国としても知られ,国内に多数の名画があるほか,各街に大小様々な美術館や博物館があります.(ライデンだけでも 10 を超える施設があるそうです.)私も休日を利用して博物館・美術館を色々と訪問しましたが,オランダ国内のあらゆる施設に一年間入り放題の共通カードが安価で販売されているほか,様々な言語での解説冊子が用意されていたりと,市民や観光客が気軽に芸術や科学に触れる事ができる環境が整っているのも印象的でした.
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図 4. 首都アムステルダムの風景.上から中央駅・国立美術館・離宮.アムステルダム中央駅は東京駅のモチーフになったとの説もあります.
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ライデン大学は1575年に創立されたオランダで最も古い大学で,七つの学部からなり,街の中心部から郊外,更には近くのハーグ(法学部)に至るまで様々な場所に大学の施設が点在しています.その中でライデン天文台は理学部に付属する形で設置されていて,1633年に創立されたかなり歴史の長い大学天文台になります.遠方銀河から惑星まで天文学に関する幅広い研究が行われていて,四十人以上の教員,五十人ほどのポスドク,百数十人の大学院生がいる,かなり規模の大きな組織です.欧米各国のみならず中南米やアジアも含め世界各国の出身者がいて,非常に国際色豊かな研究機関なのも印象的でした.そのため,談話会やセミナーから日常の議論,事務手続きまで基本的に全て英語が使われます.
因みにオランダは 90 % 以上の国民が英語を話せるという統計もある様で,大学や観光スポットのみならず,役所や駅,スーパー,レストランなどでもほぼ完全に英語が通じます.そのため逆にオランダ語に関しては,日々の生活で不自由する機会がほとんどないので,自分で意識的に勉強しない限り身に付かないといった側面もあります.なおオランダ出身の大学院生に聞いたところ,オランダ語を母国語として使う人々は世界的に見ても決して多くないため(オランダ,ベルギー北部,南米スリナムなどに限られる),小さい頃から映画や TV 番組もオランダ語字幕付きの英語版で見るのがごく普通のことだそうで,日常生活の中で英語が自然と身についていくといった側面もある様です.
オランダは世界有数のコーヒー消費国として知られています.大学内の建物の各フロアにも大型のコーヒーマシンがあり,大学の関係者はいつでも無料で飲む事ができました.そのため,昼食の後は教員から大学院生まで様々な人がコーヒーマシンの前に集まり,そこでコーヒー片手に議論や雑談を楽しむといった流れができていました.また,オランダでは夕食は家で家族と楽しむのが一般的という事もあり,皆でディナーに行くのはゲストが来た時やイベント時など特別な時に限られます.一方で毎週金曜日の夕方には談話室で Borrel と呼ばれる一時間ほどの軽い飲み会があり,ビールの小瓶やおつまみ(チーズやハム,ナッツ,ポテトチップスなど)を片手に議論や会話を楽しむなど,フランクな雰囲気の中でお互いに交流を深める事ができました.
オランダの食生活の特徴に少し触れておくと,チーズや魚介類を使うことが多いほか,旧植民地インドネシアの料理も人気があります.また,特に朝食と昼食はごく簡単な食事で短時間で済ませる事が一般的です.そのため,手軽に食べられるスナックフードが発達しています.その中でもフリット(フライドポテト),キベリング(鱈の唐揚げ),ハーリング(生ニシンの塩漬け),クロケット(クリームコロッケ),ルンピア(インドネシア風春巻き),パンネクック(オランダ風パンケーキ),ストループワッフルなどが有名で,私もかなりお世話になりました.特にクロケットについては人気が高く,街中や駅に自動販売機があるほか,某ハンバーガーチェーン店ではクロケットを挟んだバーガーが人気メニューだったりします.
研究に話題を移すと,私は大学院生の頃から,主に H2O などの分子に着目し,原始惑星系円盤の化学進化に関して,理論計算や ALMA 望遠鏡などを用いた観測を通じ研究を行ってきました.ライデン大学赴任後はこれまでの H2O スノーラインに関連した研究 を更に拡張させると共に,van Dishoeck 教授や研究グループのメンバーなどとの新たな共同研究として,より早期の原始星段階から円盤に至るまでの化学進化過程や,円盤内で形成されるガス惑星の化学組成に関する研究も進めています.
私が所属していた van Dishoeck 教授のグループはポスドクと博士課程の大学院生を合わせ十五人程の比較的大きなグループで,分子雲から原始惑星系円盤,系外惑星に至る物理・化学進化に関する様々なテーマに関して,それぞれ理論計算や ALMA 望遠鏡などでの観測の手法を用いて取り組んでいます.研究グループ全体で一つのテーマに取り組むというよりは,一人一人が van Dishoeck 教授とグループ内外の共同研究者を交えながら,自分の研究テーマを進めていく形式です.また修士課程と博士課程のシステムは日本と比べかなり明確に分けられていて,研究グループには修士課程の院生は所属していない一方,博士課程(期間は最低 4 年間)の院生は公募を経て採用され給料も支給されていて,独立した一人の研究者として扱われる側面がより強い様にも感じました.また日本と異なり,修士課程と博士課程で国内外の異なる大学に進学したり,研究テーマを大幅に変えたりすることもごく普通に行われる様です.
また,研究グループでは週に一回グループミーティングがあり,毎回 long report と short report をそれぞれ一人ずつが担当します.この時は発表スライドを用いることは禁止で,研究の要点や重要な図だけを載せた 2 ページないしは 1 ページのレジュメだけを使って話題を提供し,コーヒーを片手にメンバー全員で議論を行う形式でした.初めは少し驚きましたが,発表する中で最も伝えたい事を常に意識する癖がつくほか,参加者側も一方的に聞くのではなく議論でアイディアを出し合う中でお互いの研究に対し理解が深まるなど,得るものの多い時間でした.また,同じフロアには星間空間での化学反応の実験に取り組むグループや,系外惑星の観測に取り組むグループもあり,隔週での合同セミナーや日々の研究議論で交流があるなど,色々と刺激が得られる環境でもありました.建物の上の階には ALMA 望遠鏡のオランダオフィスがあり,ALMA 望遠鏡での観測に関する研究会やミーティングなども頻繁に行われていました.
オランダは日本の九州と同程度の大きさしかない事もあって,周辺のベルギーやドイツ,フランス,英国をはじめとした欧州各国に直通の電車や航空機を使って数時間以内でアクセスする事ができます.また EU やシェンゲン協定の枠組みなどもあって結びつきが強い事もあり,国境を超えての共同研究や研究会なども盛んに行われています.私自身もオランダにいる間に,研究会発表やセミナー発表などの機会で何度か周辺諸国を訪問しましたが,英国を除くと出入国審査もなく,国内出張とほぼ同様の感覚で参加できるのが印象的でした.また,人生で初めて電車で国境を越えるという経験もしましたが,特に車内アナウンスもなく景色もすぐには変わらないので気付かぬうちにあっさりと国境を超えており,やや拍子抜けをしたのも印象に残っています.
5. 博士論文公聴会に聴衆として参加
ライデン大学において,研究グループの院生の博士論文公聴会(PhD defence)に聴衆として参加する機会が数回ありました.一つの儀礼的なイベントを兼ねている事もあってか,日本とはかなり異なる側面が数多くあり,こちらもなかなか印象的な経験でした.折角の機会ですので,その様子を少し紹介させて頂きます.
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図 5. 博士論文公聴会の開始直前に撮影した写真.部屋には歴代のライデン大学学長などの肖像画が飾られています.
Credit : 遊星人
まず博士学位論文の提出後に国内外の審査員による審査が一~二ヶ月程度の時間をかけて行われ,その審査をパスした段階で公聴会の日程が決められます.因みに博士学位論文の提出には,査読論文 4 本程度(うち 1 本は投稿前でも良い)が最低必要とされている様です.公聴会は大学本部にあるアカデミーヘボウと呼ばれる建物(15 世紀に元々修道院として建てられた,ライデン最古の建物だそうです)の一室にて公開で行われ,研究グループのメンバーや大学内外の友人,更には両親や兄弟姉妹などの家族も招待されます.また審査される学生は友人や後輩から二人をエスコート役として指名し,審査中常に両隣に座ってもらいます.審査される学生は正装で,審査員の教授陣は所属大学ごとにデザインが決まったアカデミックガウンを着用しています.公聴会の中では日本の様なプレゼン資料を使っての発表は一切なく,審査員と学生の間の口頭での質疑応答のみが行われる形式なのも驚きでした.開始から 45 分が経過すると伝統的な衣装を着た儀官と呼ばれる人が部屋に突然入ってきて,杖で大きな音を鳴らし審査をその時点で強制的に終了させ,審査員は別室での審査に向かいます.その数分後に審査員が学位記を持って公聴会の部屋に戻ってきて,そのまま講評と博士学位授与式が行われます.授与式の後には下の階にドリンクやおつまみが用意されていて,記念撮影や軽い懇談が行われます.更に夜には近くのお店で記念パーティーが盛大に行われます.
ちなみに博士学位論文は審査をパスした段階で製本され,大量に印刷した上で研究グループのメンバーや国内外の共同研究者,家族,その他お世話になった人に公聴会の前に配られます.本文は英語で書かれていますが,アブストラクトなどは英語・オランダ語・そして母国語(オランダ語または英語が母国語ではない場合)と複数の言語で書く形式です.またそれぞれの研究内容に関連した,カラフルなデザインの表紙がついているのも特徴です.
6. まとめ
2020年02月29日,一年弱のオランダ赴任を終え日本に帰国し,03月01日から理化学研究所に勤務しています.帰国から一ヶ月足らずで日本やオランダを含む全世界で新型コロナウイルスの感染が急拡大し,現在に至るまでその影響が続いています.そのため世界各国で以前とは研究生活・日常生活の状況が大きく変わってしまいました.私自身帰国直後に襲った急激な変化に戸惑いを覚えましたが,その後オンライン形式での共同研究者との議論や研究会などにも積極的に参加する中で,研究スタイルの変化にも徐々に適応してきた所です.一方で学会や研究会のための海外渡航や共同研究のための短期滞在などが困難な状況が続く事で,長期的に研究の幅が狭まる可能性への不安が残ると共に,後輩の皆さんが将来の海外赴任を考えるきっかけや,海外での研究に対するモチベーションが減っていく状況も心配しています.
今回の研究記はコロナ禍前の状況に基づいているため,赴任手続きなどは内容に変更が生じている可能性が高いほか,必ずしも最新の海外研究生活・日常の現状を反映した記事にはなっていないかもしれません.ですが今回の研究記が一つの例として,将来の海外での研究生活に興味を持つ後輩の皆さんにとって少しでも参考になれば幸いです.なお紙面の都合上本記事に書いていない経験談がまだまだありますので,興味を持たれた方はぜひ直接聞いてみてください.最後にこの場をお借りして,Ewine F. van Dishoeck 教授や野村英子教授をはじめ,研究生活を進める中でお世話になった全ての皆様に感謝致します.また,今回の記事の執筆をお声がけしてくださった,編集委員の黒澤耕介氏にも感謝致します.
今後ともどうぞよろしくお願いします.
藤谷さんの TPSJ 掲載論文・記事
Akira IMOTO
Editorial Chief, Executive Director and Board of Director for The Planetary Society of Japan