世界の中心で研究する
遊星人の海外研究記 その 8 : February 08, 2023 Published

原文 - 日本惑星科学会誌「遊・星・人」第31巻(2022)3号 - PDF


癸生川陽子

カーネギー研究所, 現)横浜国立大学大学院工学研究院


この遊星人記事は、日本惑星科学会遊星人編集専門委員会より許可を得て掲載しております。
 



1. 経緯

なんとなく海外で研究したいという思いはあった.D3 の時にあれこれ就職先を探していたなかで,米国ワシントン DC,カーネギー研究所の George Cody 博士を紹介していただき,運よく彼が学会で日本に来た時に会うことができた.渋谷の沖縄料理屋に行ったところまわりがうるさく,店のセレクトミスだったかとハラハラしたが,当時の指導教員の助けもあり,それなりに好印象で終わることができたと思う.そんなわけで,カーネギーのポスドクプログラムであるカーネギーフェローに応募してみることになった.あまり英語には自信がなかったので,個別指導の英会話に通ったり,海外ドラマを見たりして対策した.面接のためのプレゼンを個別指導の先生に見てもらったが,内容が専門的なので辛そうであった.そしていざ面接の日を迎えた.いやはや現地で一日がかりのヘビーなものであった.午前中にセミナーでの発表,昼食をはさんで,午後は数人の研究者と個別面談だ.もちろん全部英語で,最後の研究者との面談の時は脳が完全に活動を停止しており,ほとんど何も話せなかった.よく通ったものだが,あとから推薦書が良かったとちらっと聞いた(そっちか!).この時たしか 2,3 泊して,前半はカーネギーのスタッフサイエンティストの方の家に泊めてもらった.朝ごはんにいただいたブルーベリー入りパンケーキがおいしかった.後半は事務の方が気を利かせて少しダウンタウンのほう( “ Hip ” な場所だと言っていた)のヒルトンホテルをとってくれたのだが,土地勘も余裕もなくてあまり堪能できなかった.かろうじてメジャーな観光地のスミソニアン博物館などを見て帰った.
 

2. カーネギー研究所での研究生活

ともかく,2009年06月(10 年以上前の話である!)から,カーネギー研究所で George Cody 博士のもとポスドクとして研究生活を行うことになった.カーネギーフェローは 2 年間なので三年目からは海外学振で,2013年03月までカーネギー研究所にいた.カーネギー研究所は,米国の首都ワシントン DC の北西の方に位置するこじんまりした研究所だが,名だたる研究者がそろっている.天文系では Vera Rubin 博士が現役であったり(残念ながら2016年に亡くなった),固体地球系では超高圧実験に強い.日本では地方から東京に人が集まるように,ワシントン DC(現地の人は単に DC と呼ぶ)には,世界中から人が集まってくる.まさに多様性だ.カーネギー研究所の人々も,ポスドクだけでなくスタッフサイエンティストも多国籍だった.

日常としては,週 1 回,昼前にセミナーがあり,所外から研究者を呼んでの講演,そのまま(有志で)ランチを囲むといった会がある.金曜の夕方には Beer hour だ.年に 1 回 Carnegie night というイベントがある.講演会とパーティからなるドレスコードありのイベントだ.普段は T シャツ,短パン,サンダルな研究者もこの日はスーツやドレスで決めてくる.非日常的な新鮮さがよかった.講演会は,研究所内のシニアスタッフサイエンティストが演者を務める.ここで講演するのは大変名誉のようで,Cody 博士がその役目であったときはとても緊張していた.また,大統領やノーベル賞受賞者が会員になっているという Cosmos club という歴史のある社交クラブがあり(少し前までは女性は入れなかったとか),なにかの折に何度か行く機会があった.こちらももちろん T シャツでは入れない.メリハリをつけるのが米国流だ.首都 DC はホワイトハウスやペンタゴン(国防総省,正確には DC ではなく隣のバージニア州になる)があり,政治の中心であるのはもちろん,学術面でもいろいろ集まっている.研究所では National Institutes of Health(NIH)が有名で,日本学術振興会(JSPS)のワシントンオフィスもある.カーネギー研究所にもポスドクやサバティカルなどで訪れる日本人研究者がいる他,NIH や JSPS の日本人の方々と交流する機会もあった.

カーネギー研究所の研究環境は非常に良かったと思う.サポートスタッフが豊富だ.装置など,専属テクニシャンがいる場合が多い.事務的なサポートもしっかりしており,今は自分でやっているめんどうな会計処理などはほとんど必要なかった.スタッフサイエンティストの他に,ポスドクが多く(カーネギーフェロー以外にも各研究者の研究費で雇っている場合などがある),Ph.D student(博士課程の学生)もいた.Ph.D student も給料をもらっているのが日本と違う点だ(日本でも最近は給料が出る事例が増えてきたようだが).Conel Alexander 博士など恐ろしい論文数の研究者がざらにいるのだが,あくせくしている感じでもなく,秘訣は何だろうと思ってみていた.例えば Alexander 博士は研究所に犬を連れてきており,時々庭で犬と遊んでいた.ロッククライミングが趣味の Cody 博士は時々研究所の建物の壁を登っていた.仕事の合間に適度に体を動かすのがよさそうだという安直な解が導かれるのだが,現在日本の大学に所属し日々あくせくしており,まったくまねできたものではない(今,原稿を書いている合間にも外で体を動かしてみようか?しかし外は 30 ℃ 越えの炎天下だし締め切りも迫っている!).

普段の研究はだいたいカーネギー研究所内で行っていたのだが,時々放射光を使った分析を行うためにカリフォルニア州バークレーの Adva nced Light Source(ALS)に行くことがあった.カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスを超えて山を登った感じのところにあるピンク色の建物だ.野生の七面鳥がいることでも有名(?)である.放射光施設では一般的なことだが,ビームは1日24時間出続けるので,三日間といった時間が割り振られている場合は,ビームタイムを無駄にしないために 72 時間ぶっ続けで実験することになる.さすがに1人では無理なので二人以上で交代で行うのが普通だ.初回は私が戦力外なので,私が操作を覚えるまではボスの Cody 博士と現地のビームラインサイエンティストの二人で担当する予定でいた.だが急に Cody 博士が行けなくなり,私一人で行くことになった.昼夜を問わずなれない私の面倒を見ないといけないのでビームラインサイエンティストは怒っていたし,私はそもそも日本でも放射光施設に行ったことがなく,すべてにおいて不安であったが,まあやってみれば何とかなるものだ.怒っていたと書いたがもちろん深刻なものではなく,ビームラインサイエンティストは非常に面倒見の良い人で,その後ずっとお世話になった.時々所外に行って実験などをするのは気分が変わってよいものだ.西海岸のカリフォルニアは DC とは気候や雰囲気もまったく異なるので面白い.

ワシントン DC といえばスミソニアン博物館が有名だ.自然史博物館や国立航空宇宙博物館など複数あり,いずれも無料ということもあって観光客でいっぱいだ.自然史博物館には隕石もたくさん展示してあり,大きな CI コンドライト(図 1)など生唾ものなのだが,この辺は観光客には人気がない.
 

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図 1. 自然史博物館に展示してある Orgueil 隕石と Ivuna 隕石.
Credit : 遊星人
 

自然史博物館の一番人気は,マリー・アントワネットの手に渡ったこともあるというホープ・ダイヤモンドと呼ばれる 45. 52 カラットのブルーダイヤだ(図 2a).「持ち主を次々と破滅させながら人手を転々としていく」といういわくつき(ウィキペディア情報)もあってか,観光客が絶えない.
 

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図 2a. 自然史博物館の一番人気ホープ・ダイヤモンド.右はペンダントから外された状態での展示(別日に撮影).
Credit : 遊星人
 

しかし,個人的にもっとすごいと思ったのが,Allende 隕石から取り出した肉眼で見えるナノダイヤモンドだ(図 2b).1.2 mg ある.これだけ取り出すのにいったい何 g の隕石を溶かしたのだろう.
 

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図 2b. 自然史博物館の裏人気,Allende 隕石のナノダイヤモンド.
Credit : 遊星人
 

スミソニアン自然史博物館には研究所も付属していて,たくさんの隕石が保管されている.こちらも見せていただく機会があり,博物館の裏口から入るというレアな体験ができた.

アリゾナ州フラッグスタッフにあるバリンジャー・クレーターを見に行く機会があった.見渡す限り何もない赤茶色の台地にバリンジャー・クレーターに行くためだけに作られたような道路があり,クレーターが忽然と姿を現す(図 3a,b).
 

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図 3a. バリンジャー・クレーター.
Credit : 遊星人
 

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図 3b. バリンジャー・クレーターに続く道路.
Credit : 遊星人
 

到着してみると観光地化されていて快適に見学ができ,資料館ではこのクレーターを作ったキャニオンディアブロ隕石を見ることができる.クレーターは比較的こじんまりしていることもあり,たどり着くまでの壮大な景色のほうが感動したというのが正直なところ.ともかく隕石研究者としては一度は見ておきたかった.
 

3. ワシントンDCでの日常

自炊ができないとつらかろう.小さい研究所なので学食のようなものは無いし,日本の牛丼屋のように安く手軽に健康的な(?)ものが食べられる店はなく,自炊できないとジャンクフードばかり食べることになる.私は近くのスーパーで食材を買っててきとうな自炊をしていた(実験屋は料理くらいできないと務まらない).カーネギー研究所にはランチクラブというシステムがある.持ち回りでメンバーの分のランチを作る,というものだ.最初は入ってみたのだが,ベジタリアン対応も含めて大人数の料理を作るのは思いのほか大変で,すぐにやめた.あとは夕飯の残り等をランチに持っていっていた.あるとき居室でお昼ご飯のおかずに鯖の缶詰を食べていたら(手抜きすぎだろというつっこみは無しで)異臭騒ぎを引き起こした.この匂いは〇〇〇(なんだか忘れたが薬品名)じゃないか?などと言われてしまった(鯖だよ).

時々,韓国人の留学生にコリアンマーケットに連れて行ってもらったり,中国人のポスドクにチャイニーズマーケットに連れて行ってもらったりした.ついでに食べる本格韓国焼肉や本格中華がおいしかった.中華では外来植物として規制されているという空心菜(大好物!)を裏メニューだといって出してもらった.アジア系スーパーでは米やなじみの食材が手に入るし,日本からの輸入品も売っている.たまに珍しい果物やウチワサボテンの瓶詰といった変わったものを試してみるのも楽しい.ダウンタウンのほうに行くと日本からの輸入食材を専門に売っている小さな店もあった(高いしあまり行かなかったが).

多国籍な DC らしくいろいろな国の料理のレストランがある.日本料理も本格的なものからカリフォルニアロールが出てくるようなところまで様々だ.珍しいところではギリシャ,ロシア,アフガニスタン,アフリカ料理などがあった.どこの料理だか忘れたが(東欧のほうだったか?),「タベルナ」という名前のレストランがあった.食堂のような意味らしい.

レストランなどでアルコールを頼むと必ず ID を問われる.そのたびにパスポートを出すのはなかなかしんどい(あまり持ち歩きたくない)のと,好奇心から運転免許を取った.日本の免許があれば,その翻訳(日本大使館で作ってもらえる)と簡単な試験だけでアメリカの運転免許が取れる(簡単な試験と書いたが一度は落ちた).ペーパードライバーだったこともあり車の運転はしなかった.DC は地下鉄やバスが発達しているので車がなくても生活はできる.車が必要な時は誰かに便乗,というパターンが多かった.

車がないかわりに自転車によく乗った.ワシントン DC は 10 マイル四方なので,ある日周囲を一回りしてやろうと思って勇んで出かけたが,自転車が通れない道もあったりして,半分くらいで挫折を余儀なくされた.挫折してもバスや地下鉄に自転車を乗せられるので便利だ.当時スマホは持っていなかったので紙の地図を見ながら走った.道に全部名前がついているのでわかりやすい.ちなみに DC は南北に走る道路には中心から外側にむかって 1st street,2nd street といった名前がついていて,東西に走る道路には南から,A street,B street となっている.都会の割に自然が多く,ジョギングやサイクリング用にコースが整備されている.そのような所はのんびり散歩している人やジョギングしている人,自転車の人がいる.自転車が歩行者を抜くときは “ On your left ” と後ろから声をかけて,左側を通るから気を付けてと注意を促す習慣がある.

行かないほうがよい(治安が悪い)と言われていた南東のほうにも昼間なら大丈夫だろうと思い行ってみた.実際のところ,暑い中自転車で走っていると,庭のビニールプールで涼んでいた人が,水かけたろか(暑いから涼めるようにというよい意味で),のように声を掛けてきたりと気さくな感じであった.治安の悪さを感じたのは,飲み物かなにかを買いにスーパーに寄ったときに,店員から自転車に鍵をかけたかと念をおされたことと,店に入るときにバックパックを預けなければいけなかったこと(万引き防止と思われる)であった.このような対応は初めてだった.この地域で見かけたのはほぼ 100 % アフリカ系(もしかしたらラテン系もいたかもしれない)だった(私はさぞ浮いていたであろう).いまだにこのような人種格差があるのがアメリカの現実なのだと思った.

とはいえ,先にも述べたが基本的に DC は多様性の街である.今でこそ日本でも LGBTQ+ といった言葉をよく聞くが,DC はだいぶ先を行っており,毎年 Pride Parade という彼らが主役のお祭りがあるし,カーネギー研究所でもイベントの際などに普通に同性のパートナーを連れてきているポスドクもいた.これは日本に帰ってから聞いた話だが,カーネギー研究所の事務系スタッフの一人が同性のパートナーと結婚したそうだ.

アメリカ人はお祭りが好きだ.何かにつけてお祭りがある.私が一番好きなのはハロウィンだった.いまでこそハロウィンは日本にも浸透してきているが,当時(少なくとも私が渡米する前)はさほど一般的ではなかったと思う.ハロウィンシーズンになると,家々の前に工夫を凝らしたハロウィンの飾りつけがなされて,それを見るだけでも楽しかった.渡米した最初の年には,Trick or treat をやってみたくて,半ば強引にお菓子をもらいに家々を回ったことがある(本来は子供がやるものだ).私ともう一人の日本人ポスドクにつきそってくれたアメリカ人は苦々しく,こいつらハロウィンの習慣がない日本から来たので…,などと言い訳をしてくれていた.申し訳なかったがとても良い経験をさせていただいた.カーネギー研究所ではかぼちゃ彫りコンテストがある.初年度は日本人チームで,かぼちゃの伊達政宗を作って優勝した(図 4).一方で,クリスマスの後には家々の前にクリスマスツリーの残骸としてそこそこ立派な本物の木が打ち捨てられており,毎年使い捨てなのかと悲しい気持ちになったものだ.
 

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図 4. かぼちゃの伊達政宗.
Credit : 遊星人
 

桜の季節には National Cherry Blossom Festival がある.DC は桜が名物で,ダウンタウンのナショナルモールには日本から寄贈された桜が植わっており,桜の季節には観光客や地元民がこぞってお花見に来る(図 5).
 

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図 5. ジェファーソン記念館付近の桜.
Credit : 遊星人
 

日本のようにがっつりブルーシートを敷いて酒を飲むという習慣はないが(そもそもアメリカは公共の場所でお酒を飲んではいけない),レジャーシートをひろげてランチを食べたりくつろいでいる人々はちらほらいた.お花見文化は DC に根付いているようで,例によって自転車でうろうろしていた時に,なんでもない住宅地の合間の公園に桜がたくさん咲いており,地元民(おそらく)がレジャーシートでお花見をしていたのを見かけたことがあった.ちょうど満開な折りでいい感じだった.カーネギー研究所の庭にも小さな桜の木があった.

2011年の Cherry Blossom Festival は,東日本大震災のすぐ後だったため,追悼やチャリティー活動も行われていた.03月11日当日は LPSC(月惑星科学会)でテキサス州ヒューストン郊外にいた.ホテルで朝ご飯を食べているときについていたテレビになんとなく目をやったらすさまじい津波の映像が映っていたのだが,テレビの音声はほぼ聞こえなかったし,その時はまさかこれが本物とは思わなかった.LPSC の会場についたらなんとも不穏な雰囲気で,朝の映像が本物だったと気づいた.学会から戻ってしばらくたって少し落ち着いたころに日本に一時帰国した.食料が不足しているらしいとのことでカップ麺やらを買い込んでスーツケースに詰め込み,すかすかの飛行機で帰国した.成田エクスプレスからの景色の時点で,屋根に青いビニールシートが被せられているような家を多く見て,被害を実感した.宇都宮の実家は幸いさほど被害はなかったが,計画停電で信号機がとまっていて怖かった.

DC は基本的に地震のない土地柄だ.あるとき研究所で揺れがあって,ラボで爆発でもあったのかととりあえず外に避難,どうやら地震だったようだ.体感的には震度3くらいだったのだが,地震対策をしていない分,住んでいたアパートの壁にひびが入ったり,街の有名な大聖堂の一部が崩れたりと意外と被害が大きかった.研究所でよく使っていた顕微赤外分光装置の管理者が,装置は大丈夫かと心配していた.日本分光(JASCO)製の装置だったので,日本ではこの程度の地震はしょっちゅうだから問題ないと言ったら納得していた.

最後に,海外にいると,海外(ここではアメリカ)の良さと逆に日本の良さと,両方に気づくことができ,研究面だけでなく人生経験として貴重な体験であったと思う.若い方(に限らず),機会があれば海外研究生活をしてみることをお勧めしたい.質問などお気軽にお声がけください.10 年ほど前の話なので,記憶があいまいな点があることはご了承いただきたい.
 

癸生川さんの TPSJ 掲載論文・記事

不溶性有機物 IOM:始原天体有機物研究の今とこれから II
 



Akira IMOTO

Editorial Chief, Executive Director and Board of Director for The Planetary Society of Japan

Web edited : A. IMOTO TPSJ Editorial Office