アパラチア山脈に囲まれた田舎での研究生活
遊星人の海外研究記 その 13 : May 13, 2024 Published

原文 - 日本惑星科学会誌「遊・星・人」第33巻(2024)1号 - PDF


保井みなみ

神戸大学大学院理学研究科


この遊星人記事は、日本惑星科学会遊星人編集専門委員会より許可を得て掲載しております。
 



1. はじめに

私がアメリカに滞在していたのは,かれこれ 7 年も前のことである.そのため,頭の奥底から記憶を引っ張り出してこの原稿を書いているが,記憶が曖昧な部分もあるため,その点はご容赦願いたい.

私は2016年04月から 10 ヶ月間,アメリカ北東部,ニューハンプシャー州ハノーバーというアパラチア山脈の麓の小さな街にあるダートマス大学・セイヤー工学部(Thayer School of Engineering, Dartmouth College, 図 1)で,自由気ままな研究生活を送っていた.ダートマス大学というとあまり聞き慣れないかもしれないが,ハーバード大学やブラウン大学などと同じ,アメリカ北東部のアイビー・リーグに属する八つのトップクラス私立大学の 1 校である.なぜ,私がダートマス大学に行くことになったのか,その経緯からお話ししよう.
 

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図 1. ダートマス大学・セイヤー工学部の校舎.外観がレンガ作りで,長い歴史を感じる.
Credit : 遊星人
 

2. 渡米の経緯

昔から「海外で研究生活を送りたい」と思ったことは,正直なかった.なぜなら,私は英語が大の苦手で,英会話能力ほぼゼロだからである.院生時には色々な国際学会に連れて行ってもらい,多少は英会話をする機会も増えていたが,それでもこの苦手意識は変わらなかった.博士二年の時に,学振の特別研究員制度の一環で長期海外派遣の制度ができるという話を聞き,英語力は置いておき,この時に初めて真面目に海外での研究生活について考えた.当時,私は氷天体表層を模擬した氷・岩石混合物のレオロジーについての研究をしていたため,この分野で最先端の研究を行っていたマサチューセッツ工科大学(MIT)に行きたいと思ったら少し乗り気になり,動き始めようとしていた.ところがこの制度は,自民党から民主党への政権交代による仕分け対象となり,話は流れてしまった.

その後,博士号を取得し,神戸大学に赴任して 5 年が経った頃,神戸大学で若手教員長期海外派遣事業が開始された.40 歳未満の若手教員が各部局から 1 人推薦され,採択されれば支援金が支給され,半年以上海外に派遣される制度である.英語の苦手意識はもちろんあったが,最後のチャンスかもしれないと思い,申請することにした.幸いにして,研究科で申請したのは私だけだったので,審査なしで採択され,長期海外生活を送るチャンスを手にしたのである.

なぜ,ダートマス大学を選んだのか.最初は MIT を希望したのだが,氷のレオロジー研究を行っていた先生が一線から退いていることを知り,断念した.そこで,修士学生だった頃に太陽系の氷天体に関する研究会でお会いした,ダートマス大学の Erland M. Schulson 教授に連絡をとってみた.彼は,氷のレオロジーでも特に脆性破壊に関する研究が 有名で,地球氷河・氷床の破壊メカニズムをミクロな視点で調べてクラック成長過程を明らかにした業界の第一人者である.ただ,研究会でお会いした時は 60 歳後半だった(と思われる)ため,既に引退しているかもという危惧はあった.ところが,Schulson 教授からはすぐに OK の返事が来たのである.70 歳を超えている(と思われる)のに,未だ現役の研究者として活躍されていた.そして,一度お会いしただけで 10 年近く経っても私のことを覚えていて下さったことに驚いた.こうして,私は Visiting Research Scientist として,ダートマス大学で受け入れてもらうことになったのである.
 

3. 英語力

さて,渡米することは決まったが,心配事が再浮上した.私の英語力である.30 歳を超えて国際会議での英語発表の機会も増え,何とかなるかもという気持ちになっていたが,それはビザ申請のために訪れた在大阪・米国総領事館でのインタビューで打ち砕かれた.ブースの向こうで言っている領事館職員の英語が分からない.何度も聞き直し,何とかインタビューを終えた.この悲惨なインタビューの結果,ビザが発行されなかったらどうしようかと思ったが,無事にビザは発行されて安心した.

私はかなりの心配性なので,渡米前に向こうでの生活環境を整えておかなければと,早めから Administrative assistant であった Mary Moul さんと連絡を取り合っていた(会話力はゼロだが,書き読みはまだいけた).Mary さんは長年勤めておられる超ベテランの事務員さんである.アメリカの事務は日本と違い,なかなか手続きが進まないイメージがあったが(実際にマイペースな人は多かった),Mary さんは仕事が早く,お願いしたことが 2,3 倍になって返ってくるという,本当によくできた人だった.早めに連絡を取り合っていたおかげでアパートの契約は渡米前に完了し,渡米した次の日には私の住むアパートは既に生活ができる状態になっていた.本当に有り難かった.

Mary さんがいたおかげで,私の壊滅的な英語力でも何とか生活することができた.電気や水道の契約,銀行口座の開設,アパートの管理会社や研究備品の業者とのやり取りなどあらゆる場面において,Mary さんはいつも助けてくれた.時には代理で電話をしてくれたり,対面では間に入って通訳をしてくれた.とは言え,Mary さんは日本語を話せるわけではないので私との会話はもちろん英語だったが,拙い私の英語を理解し,私でも分かるように話してくれたため,彼女との会話に気兼ねすることはなかった.また,最初のアパートの更新が出来ないことを契約満了直前で知り,再び住む場所を探さなければならなくなったときも,落ち込んだ私に最後まで付き合ってくれた.彼女がいなければ,私のダートマス生活は成り立たなかったであろう.
 

4. ダートマス大学での研究生活

ダートマス大学・セイヤー工学部には Ice Research Laboratory (IRL)という研究室があり,複数の教授が所属し,各教授の下で氷に関する様々な研究を行っている.Schulson 教授は IRL の Director であり,彼のラボは他にマネージャーが 1 名,院生が 1 名,学部四回生が 1 名,そして,同大学理学部地球科学科の Carl E. Renshaw 教授が協力教員として,時々顔を出していた.Renshaw 教授は地質学者であり,専門は水文学だが,氷のレオロジーの研究も行っている若手教授である.最初は,装置の使い方やマナーをマネージャーの Daniel が丁寧に教えてくれ,徐々に慣れてきたら学生や Daniel と一緒に実験をし,最後はほぼ一人で大きな装置を動かせるまでになった.さすがにここまで Mary さんの力を借りることはできなかったが,私の英語力でも何とか言いたいことは言え,実験も進めることができ,最終的には滞在中に論文も投稿できた [ 1 ].壊滅的な英語力でも,研究面では専門用語を並べたら何とかなるものである.また,Daniel が気さくでノリがよいことも功を奏した.Daniel と話していると間違えても通じてるみたいだからいいか,とよい意味でどうでもよくなった.研究面では,Daniel がいなければ私の研究は進まなかったであろう.

研究の話に戻ろう.私の博士論文の研究は,シリカ粒子の濃度と空隙率も変化させた混合氷の変形実験を行い,氷の流動則に対するシリカ濃度,空隙率,温度の影響を調べる内容だった.流動則を調べると,地球や火星の氷河・氷床の形成過程や,氷衛星のクレーター緩和,マントル対流などへ応用できる.博士ではその塑性的性質を調べていたが,ダートマス大学では脆性的性質を調べることにした.脆性的性質を調べることで氷河の崩壊,氷天体上の断層地形 の形成過程など応用範囲が 広がるため,前からやってみたかった研究ではあったが,博士論文ではそこまで手がまわらなかった.氷・岩石混合物の脆性破壊についての研究例は非常に少なく,Schulson 教授も前からやりたかった研究だったそうだが,混合物を作成するにはコツがいるため,手を付けられずにいたらしい.IRL では試料の岩石濃度を変化させ,脆性破壊強度と塑性変形 - 脆性破壊の境界条件を調べる実験を行った(図 2).
 

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図 2. IRL の大型三軸変形試験機.高さは 4 m 近くあるため,試料を設置するのも一苦労であった.
Credit : 遊星人
 

とはいえ,試料作成や実験方法は,装置や環境は違うと言えど,学生時代に行っていたことと同じである.岩石として用いていた粒径 1 μm のシリカビーズも日本から取り寄せたぐらいである.折角,Schulson 教授の下で研究できるのだからと,日本ではやったことのないことにも色々と挑戦した.中でも一番は,試料の構造観察を行ったことである.シリカビーズが氷粒子間にどのように配置されているのか,濃度が高くなるとどうなるのか,変形後は構造がどう変化するのか,学生時代からずっと気になっていたのだ.日本では,低温室内で顕微鏡を用いて薄片を観察するのが精いっぱいであり,他大学のラボで TEM やラマン測定装置を用いて観察してもらったこともあったが,常温下でしか観察できないため,氷 粒子とシリカの配置関係が不明瞭であった.一方,ダートマス大学には Electron Microscope Facility という大型の分析施設があり,そこで氷点下での SEM 観察が可能であった.私は何度も施設に足を運び,納得のいく画像が得られるまで担当 director とチャレンジした.氷点下で観察できるとはいえ,氷と岩石の混合物の観察は難しかったが,望んだ画像が得られたときの喜びは一入だった.私の無謀な挑戦に付き合ってくれた director の Daghlian 氏には非常に感謝している.おかげでよい論文が発表できたといっても過言ではない [ 1 ].

私の研究以外にも,Daniel や学生の実験を手伝ったこともあった.2 m を超える巨大タンクの中で粗粒の氷試料を作成したり,冷媒循環型の装置を組み立てて空隙のない氷試料を作成したり,別の実験装置を使って曲げ実験や破壊実験をしてみたり.実験をするのは寒かったけどとにかく楽しかった.また,セイヤーには大きな技術工作室があり,消耗品や部品を借りに何度か足を運んだ.日本人は珍しかったらしく,技術職員の人たちもすぐに打ち解けてくれた.備品を借りに行けば事務の人達は温かく迎えてくれ,セミナーや講義にも学生ではないのに参加させてくれた.とにかく,セイヤーの人達は皆いい人達で,いつも誰かが助けてくれた.思いやりや気遣いの心が自然と身についているのだろう.
 

5. 日本語クラス

研究以外で印象に残っているのが,日本語クラスに参加させてもらったことである(図 3).
 

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図 3. (上)一年生の日本語クラスの授業風景.(下)日本語クラスのメンバーと渡辺先生(前列左から二番目).出身国は様々.
Credit : 遊星人
 

ダートマスでの生活も少しずつ慣れてきたある日,Schulson 教授から学部生の第2 外国語のクラスで日本語があるのだけど手伝ってくれないか,とお願いをされた.日本語クラスは人気があり,一方でハノーバーに住む日本人は非常に少なかったため,日本人のヘルプを必要としていたようである.アメリカでは日本語を外国語としてどのように教えるのか,と興味を持ち,即 OK の返事をした.その時に担当教員として知り合ったのが渡辺郁子先生である.ハノーバーで暮らす数少ない日本人のひとりであり,長年ダートマスで教鞭を取られているベテランの先生である.私がヘルプ(とはいえ,ほぼ見学)として入ったのは,一年生と三年生のクラスであった.一年生のクラスは,まだ入学したばかりで,全く日本語が話せない学生たちである.ところが,渡辺先生は最初から日本語しか話さない.英語禁止である.もちろん学生もそうで,最初はほぼついていけない.しかし,予習復習をしっかりと行う彼らは,2 回,3 回と授業が進むにつれて喋れるようになるのである.これには驚かされた.私と会話をすることも何度かあり,なるべく難しい言葉を使わないよう丁寧に会話することを心がけ,彼らも理解しようと必死で言葉を繋げてくれた.ダートマスの学生の修学意欲には頭が下がる.三年生にもなるとレベルはグッとアップする.私が参加したクラスでは,夏目漱石だったか芥川龍之介だったかの難しい本を読んで,時代背景や筆者の思いなどの議論を行っていた.日本語はほぼパーフェクト,会話に全く支障ないレベルである.2 年間でこんなにも成長するのかと,再び驚かされた.彼らに,なぜ日本語を勉強しようと思ったのかを聞いてみたことがある.答えてくれた学生のほぼ全員が,日本や日系の企業に就職したい,将来は日本で働きたい,という明確な夢を持っていた.夢のために勉学に励むダートマスの学生の姿勢を,日本のうちの研究室の学生も少しは見倣ってほしいものである.
 

6. 日常生活

最後に,私がアメリカでどのように生活していたかをお話ししよう.

ハノーバーに来て驚いたのが,治安の良さである.ハノーバーは本当に小さな街で,メインストリートも 2, 3 階建ての雑貨店やカフェ,ホテル,レストランが数軒並ぶだけで,100 m あるかないかだった.治安の良さを感じたのは,どの家も鍵を掛けていないのである.ハノーバーに住んでいるのは,大学の教職員とその家族,学生,そして定年退職した年輩の方々で,犯罪など一切起こらない.治安がよい理由はもう一つあり,とにかく家賃が高い.東京山手線内側の相場の 2~3 倍といったところだろうか.ただ,その治安の良さのおかげで,心配ごと無く暮らせた.

休みはスーパーまで歩いて買い物に行き,野菜や肉,魚など(価格は日本の 2 倍強)を買って,なるべく自炊を心がけた.時々,高速バスでボストン(片道 3 時間ぐらい)まで行き,ショッピングや観光を楽しんだ.アメリカ生活で一つ頑張ったことは,車の免許を取得したことである.免許を持っていないことで何ら不便はないが,持っていて損はないし,滞在中は身分証明書として利用できるため,パスポートを持ち歩かなくてもよい.教材はもちろん英語だったが,日本の交通ルールとほぼ同じだったため,昔を思い出しながら勉強した.路上試験では英語わからないアピールをしたおかげか,試験官がゆっくり指示を出してくれた.最後の評価は早口で何を言っているのか分からなかったが,「Congratulations!」と言われたので合格したんだなと実感した.その後はシェアカーで少し遠出の買い物も行け,免許を取っておいてよかったと思う.

夏や冬の長期休暇には,飛行機を利用して遠出をした.夏はアメリカ南部に旅行し,ニューオーリンズで南部の音楽や料理を楽しみ,アトランタでは水族館やコカコーラ博物館を巡った.また,現在は東京大学にいる長勇一郎さんご夫妻が同時期にアメリカに滞在しており,彼らの住むハンツビルまで遊びに行った.それまでほぼ日本語を喋らない生活を送っていたので,久しぶりに日本語を話せる機会に感動した.こんな私の相手を 2 日間もしてくれた(飛行機が欠航になるトラブルもあったが)長夫妻には本当に感謝している.冬は,私の両親が人生で一度はニューヨークに行ってみたいという希望で,ニューヨークとワシントン DC を観光した.旅程を考え,ホテルやら交通手段やら観光バスやらを全て予約するのは大変で,かつ両親は初めての海外個人旅行で不安しかなかったが,ザ・アメリカという観光地を沢山巡れて,楽しめたのではないかと思う.

普段の生活で特にお世話になったのは,Schulson 教授の奥様である Sandra さんだった.Sandra さんは行動力があり活発,料理上手で,何度もホームパーティに呼ばれて,素敵なランチやディナーをご馳走になった.夏の暑い時期には別荘に誘ってくれて,雄大な湖を眺めながらいただいたディナーは本当に素晴らしかった.私が高熱を出したときは病院に連れて行ってくれて保険の交渉もしてくれ,運転免許試験の時は州都まで 1 日付き合ってくれた.時には「明日,○○まで買い物に行くから,Minami も行きましょう!」と何度も外に連れ出してくれた.Sandra さんがいなければ,きっと私は引きこもりになっていただろう.

最初のアパートの契約更新が出来なかったため,次の住む場所に選んだのが下宿タイプの一軒家であった.下宿先は 1 階に大家である Anne さん,2 階が私が借りた部屋になっており,キッチンや洗濯機などは共同である.この Anne さんがまた素敵なご老女で,私に本場のアメリカ生活を体験させてくれた.子供達にお菓子を用意して一日中家で子供達を迎え続けたハロウィン(図 4 上),Anne さんの大家族に交ざってターキーとパンプキンパイを食べた感謝祭,大きなもみの木に飾り付けをしてのんびり過ごしたクリスマス(図 4 下),怪我して危険だからと買い物に行けずに家で待機していたブラックフライデー(笑).Anne さんのお孫さんがよく遊びに来ていて,時々,折り紙で一緒に遊んだりもした.普段の買い物も時々付き合ってくれて,よく車を出してくれた.Anne さんと一緒に過ごしたのは 5 ヶ月間だったが,本当に楽しかった.
 

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図 4. (上)ハロウィンで仮装した子供たち.手にはカボチャ型のお菓子 BOX.(下)アメリカのクリスマス.奥にいるのが大家の Anne さん.
Credit : 遊星人
 

7. 最後に

帰国直後は,日本のドタバタ生活にすぐに身を置くことになったため,余韻に浸っている時間はほぼ無かった.久しぶりにダートマスでの生活を振り返ってみたが,大変だったけど充実していたと感じている.事情があって 10 ヶ月という短い滞在期間となり,他の海外経験者に比べて短い期間ではあったが,濃い 10 ヶ月であった.帰国して 3 年後にコロナ禍に入り,海外に行く機会が随分減り,海外の人と会話をする機会もなくなり,私の英語力は渡米前のレベルに戻ってしまった.しかし,今なら「また行ってこい」と言われても,当時ほど狼狽えることはないと思う.実際は長期滞在は無理なので,1 週間とか 2 週間とか短期であればいいかなと思う程度であるが.

全く英語力に自信の無かった私でも,ひとり放り出されてしまえばどうにかせざるを得ないし,どうにかなるものである.もちろん苦労したことも沢山あったが,楽しかったことも沢山あった.日本にいたら経験できないことも沢山経験できた.学生さんの中には,英語力が心配で海外に行くことを躊躇っている人もいるであろう.しかし,どうにかなるものである.勇気を出して飛び出せば,周りの人達は助けてくれるし,楽しめるはずである.是非,日本の外に飛び出してもっと広い世界を見て欲しい.
 

参考文献

[1] Yasui, M., 2017, J. Geophys. Res. - Solid Earth 122, 6014.
 



Editor : Akira IMOTO

Editorial Chief, Executive Director and Board of Director for The Planetary Society of Japan

Web edited : A. IMOTO TPSJ Editorial Office